「あととさき - 室生犀星」鶴見俊輔編 老いの生きかた から

 

「あととさき - 室生犀星鶴見俊輔編 老いの生きかた から

 

人間は余り長期に亙って患うていると、飽かれて邪魔物にされるものだ。私の義父は七年間病床にいるあいだ、継母から粗末な扱いを受けて亡くなった。義父が小用のために母親を呼び、母親は春先のことで外出していて、家の中で彼女を呼ぶ義父の声が、外は春であるのに私の耳に悲しくひびいた。
ある出入りしていた大工さんで腕のよい男があった。妻は永い間の糖尿病がもう眼に来ている程わずらっていたが、それでも手捜[てさぐ]りで飯を炊いて亭主を仕事に出していた。しまいには勝手に這うて行ってお菜をこしらえていたが、大工さんは入院とか医療の思いやりをしてやらなかった。そういう余裕もなかったのであろうが、私はその大工さんの顔をみると女房[かみ]さんは大事にしてやれと繰言をした。大工さん自身も酷[ひど]い喘息持ちでお医者は夜中に電話がかかって来れば、大工さんの喘息が起ったのだと決めていたくらいであった。この二人の人間は前後して亡くなったが、どちらもお互に看護されずに一人ずつ孤独で窮死して行った。
ある鳶職の人がたまに私の家に仕事に来て、家内がまた病気しているが今度こそだめだろうと言い、こんどこそ自分で片をつけてくれなければ困るとこぼし、一年経った後にまた来て今度こそと思っていたが、恢復して動き出したと言い絶望の面持ちだった。生きる人間が生きるために、相手の死の早いことを願っているのである。ある老いた女は晩年これも糖尿病になり、家族が甘い菓子をくれないので自分の部屋を閉め切り、その部屋にとじこもってキャラメルなぞを愉しく舐[しやぶ]って、間もなく亡くなった。菓子を食べたいために、家族から離れて一人で暮していたのである。 

ある有名な俳優でその奥さんが十年も、病床についていた。その十年めかに奥さんも承知のうえである婦人と結婚しその披露の宴が催されるという、新聞記事がある朝に掲[の]っていた。こういう話も纏まるということがあるのかと、その夫人がそれをすすめた気持はどういうものであろうかと、小説は書いていても手もとどかないところにある人間の心が解りかねていたのだ。
私と妻のあいだでは、妻は何時も先に亡くなればいいんですがねと言い、あなたが先だと後の事が大変ですからといった。それは何でもない時の、そういう話が出て来なくても宜い折りにほっそりと印章[はんこ]を捺すように一年に二度くらい出てきたのである。私はどちらが先になり後になるにしても、死ねばきっと後々は巧くゆくものだ、年齢から言えば私が先に廻ることになる。第一この頭に不相応な仕事の無理が怖い、きみはそうして病気と対決しているから守られていて、網の目の中にいるが、私は自分で気を附けていても野放しのところがある。気を附けている時間に較べると、途方もないところに隙間があるから、持って行かれる率が多いというふうに言い、妻は結局後にのこるということに無理がないように思うていた。そしてその様な折りには妻はあたたかい微笑をうかべ、私はそれを生きぬく人の嬉しさだという解釈の下で見ていた。大工さんの話や鳶職の人の話はそういう雑話の中の人物であって、私に慄然として恐怖をさそい込む程ではなかった。

たとえば私の妻は私が書斎でどれだけ沢山の婦人の客が混み合っても、わたくしも仲間に入れて貰いましょうと言って、座布団の上に坐って縁側を書斎まで舟のように曳かせて来る程、妻はそれを気にしない人だったのだ。その中にはバーの女主人も居れば若い文学好きの少女もいたが、その人達の話を面白そうに聞き入っていた。バーの女の人も何処の家庭に行って見ても、お宅のように角のとれた奥さんは始めてである。始めは好い風にあしらわれていても、やはりバーを経営している仕事が眼について来て、三度めくらいから此方が居辛くなる、それがお宅では訪ねる数がふえるごとにお親しくしてくださる。やはりお人がらがそうなるのでしょうねと言われた。私が客に疲れていても、妻はしきりに皆さんにお食事を出しなさいというのである。
私は女の人の事でぼろを出したためしは、一度もなかった。ぼろがあれば匿さなければならないし、匿し終[おお]せないようなぼろなら、始めから下げていた方がよかった。女の人からの手紙は一応私が読み、そして妻に読んで貰い、その人が訪ねてくれば手紙の主であることを判るようにしていた。夜は一さい外出をしない習慣のある私であり、昼間は娘が★[つ]いて来るくせのついた私には、信を置く点では完璧なものだった。その信を壊すということは愚かさも極まった者である。ただ、やはり私の始終気にしていたことは大工さんや鳶職の人のことであり、この人達が病妻への酷[むご]たらしう思いは、この人達ばかりが持っていた残忍さであったかということになれば、それはこの人達だけが抱いている考えでないことが言えるのだ。その中に私も当然編入されてよい薄情と残酷とを包み匿せないと白状した方が、純粋であるように思われる。彼らは必要と欲望に迫られていたが、私にはその惨酷な疑念の必要がなかったのだ。何をするにも妻ウメ子は邪魔者にならなかった事である。何でも許し何にも信を置いている倖せな人には、殆ど私は感謝され通しであってその為に却って私は赤面したくらいであった。この人もおお方多病だから死ぬであろう、早く死ぬか遅く亡くなるかの問題に打つかると、私はその考えを考えることをうっちゃっていたくらいである。そこに大工さんや鳶職の人の考えを見出すたびに、私はその考えに近づいてはならない、近づくだけでも大工さんや鳶職の人の考えと一緒になることを怖れていたのである。
人間の永い生涯には妻が死んでくれた方がいいと、ちょっとでも考えない人があっただろうか、その夫が若し先に亡くなったら、ああしよう、こうしようと死後の策を考えない婦人があっただろうか、折々確[しつか]りした眼付と身構えを持って見合せた眼こそは、たしかに今まで生きて来た善後策を講じかかる、退[のつ]ぴきならない眼附きだったのである。どちらかが生きのった時には、先ず後始末をしなければならないのである。
人間につきものである晩年の悲劇は、二人とも半ば老いた時に開始され、間もなくその一幕は終る。それも三、四年も経てば忘れまいとしても忘れて了う。自分自身も詩も恋愛もないところ、何も見えて来ないところ、何も考える事さえ出来ない所に追い出されるのだから、たとえ夫婦同体であっても其処まで行けばばらばらになって死ななければならない。老いて生きのこった一人は、日向ぼっこをして欠伸をしながら呟く、あの人は一体何処に往ったのだろう、あんな笑い顔はどうなったのであろうと、美しい物が滅びた後は、もっと美しい物が見えてくる時を待機するようになるのである。