「酔う ー 幸田 文」中公文庫“私の酒”から

おさけが大好きで、晩酌を欠かさない父親をもったせいか、私は小さいときから酔うというのと、酔っ払うというのとは違うと承知していました。酔うというのは機嫌がよくなって喜んでいることで、酔っ払うというのは愚劣な人に下落変化すること、というように思っていました。ですから酔うのはよくて、酔っ払った人には軽蔑を感じていたのです。酔うと酔っ払うとにそんな区別をしているのですが、一人の同じ人が酔ううちにたちまち酔っ払いに下落変化してしまうのは、まことにずるずるべったりで、納得の行かない気に入らないことでした。いちばんいやなのは、酔うだけのはずの父親が、まま酔っ払いに下落するときでした。よその酔っ払いは軽蔑しますけれど、父親が酔っ払えばかなしうございました。
と、こう書いてくるとしきりに思いだすことばがあります。御酒(ごしゅ)ということばなのです。ことばは時代といっしょに動いて行く生きものですから、古い云いかたがいつまでも通るとは限りませんし、ことに戦争のあとは新しい云いまわしがふえました。いまは誰でもがおさけと云うように聞きます。私の小さいときは、女の子はおさけとは云うな、御酒(ごしゅ)と云うのだと教えられました。おさけと云えば女の子のことばにしては荒々しい、美しくないというように云われていました。それで、酔う程度の上品なことには、御酒をあがってというように云い、酔っ払ったとなると、おさけをのんでと云い、乱暴狼藉のあげく車止めの石を枕に往来ふさげに寝入るような人のことは、女の子はもう何とも申しません。男のひとが云います、「なんのざまだ、ちっとばかりの酒をくらやがって」というように、御酒、おさけ、さけは、まあこんなふうに使いました。いまはもう御酒とは云わないようですが、古いことばぐせがついているので、私は、「おさけ、おのみになりますか?」とか、「おさけ、お持ちいたしましょうか」などと云われると、なにかち
ょっとまごつきます。おのみになる ー という云いかたをしなかったのですし、その上へおさけということがついているので、奇妙な気がするのだとおもいます。もし私よりも一トいき年輩の、御酒好きのかたがこういう云いかたをされたら、きっととたんに興がさめて、どんなにか味気ないことだろうと察します。でもこれは、私の子供のころのことばの時代感覚であって、おさけが悪いわけはありません。さけにおをつけて柔かく云っているのですから、むしろ優しいことばなのです。「ね、どう?おさけすこし?」「いいわね。ちょっときょうは、あたしも疲れた!」などと、タイトスカートを上手にこなして行く二人は、いかにもきびきびと働けそうで、こういう会話にはおさけはぴたりとしています。御酒では似合いますまい。
つまり新しい感覚で、生きて好もしく使われているのです。古いくせのついている私でさえ、おさけ ー 酔っ払いの聯想は越しませんし、うまく使ってるなと思います。しかし、「おさけ、おのみになります?」と云われるとへんな気がしてしまうのです。
話が横にはいりましたが、とにかく私は子供だちから、酔うというのは上機嫌になって喜んでいるいいものなのだ、と思いこんでおりました。それなのに自分は酔ってみようという気になりませんでした。のちには偶然ですが、新川の酒屋へ縁づいて、あけくれ酒樽を見る生活になっても、まだ酔おうとしません。味のうまさはわるくないでもないのに、飲みたい気が起きません。愛飲家の父には、不肖の子、酒屋の亭主には話にならない女房でした。自分でもなんとか少しは、頂き馴れたいと気がひけて、お医者さんに相談しましたが、アルコール分に過敏症なのだということでした。鈍感なのなら処置なしです。でも敏感ならしめたものだ、嘗めただけでも酔えるはずだというわけです。けれども、それでは、酔うような気がするというにとどまって、ほんとうに快く酔うことには、はるかに遠いもののようです。私は半分あきらめました。
半分というのは、自分が酔うことをあきらめたので、ひとさまが酔うのをまで私があきらめる手はありません。私はひとの酔う気もちのあとをついて行こうとしました。父親は、「そんな影法師のような、しみったれたことはよせ」と云います。よせません。酔った人の心の動きは溌剌としているし、つややかに優しくもあるし、それをうしろから辿って行くと、私もある一種の「淡い酔いのごとかもの」を感じることができました。私は御酒の席にまざって一人ぽつんといて、幾分かは皆さんの酔いに従うことができるようになりました。そして齢をとりました。
そのときは私ももう四十を過ぎていました。老衰の父の供をして温泉のある宿へ避寒していたのですが、そこへ若い知人が訪ねて来ました。軍人ではありませんが、戦地で傷ついて帰って来てみれば、旧知はたがいになつかしいのでした。早速一風呂すすめて、おりから日は暮れかかるし何はあれ、もちろんのことです。父は病中ですから控えていますが、客は酔って行きます。傷を負ったからだに酔は早いようでした。時間がたって父はもう床に就き、客はいよいよ酔って語ります。外地の風物や人情が迫って、私もにわかに寂しくなりました。すると突然、恋の話です。大陸のどこの飛行場だか、真夜中のまっくらやみで飛行機にのるのです。見送り人など許されるはずはありません。でもその人は柵のほうにたしかに愛人が自分の名を絶叫するのを聞いた、はっとふりむいても暗々とただまっくら、風は痛いほど砂を吹きつけていた、 ー といって声がないのです。私も酔って、なにか耳に絶叫が残っているようで困りました。が、客はつぶれていました。と、父がちゃんと眼をさましています。「酔ったらしいな。かわいそうに、戦争でいためられて、酒が弱くなったか
ね。..... おまえ大ぶ聴かされたな」と笑います。「おとうさん、聴いていらしたの?」「ああ。つきあって聴いててやったさ。」そして、「ご苦労だった」とねぎらってくれました。ひどくいい気もちでした。いささか酔った感がありました。この話も十何年か昔になりました。
なぜ小さいとき、酔うのはいいものだと思ったか。子供の心はそれとは知らずに、酔いのなかに詩と絵とを感知しついたのかもしれませんし、酔っ払いはそれをこわす破壊者だから、なんとなく嫌ったのかとおもいます。