「酒は飲むべし乱れるべしー石原慎太郎」中公文庫“私の酒”から

ー 酒は静かに飲むべかりなり、とはいうが、そうは思わない。酒は静かに飲むべからざるもの、と信じる。
酒の上での放歌、口論、狼藉を大いに良しとする。少なくとも二十世紀では大方の人間はそのために酒をのんでいるのではないのか。大袈裟なアフォリズムだが、二十世紀が酒に対して持つ意味は、この時代に酒が人間にとってとうとう薬になってしまったと言うことだ。
その薬の効用は、即ち、酔うこと。酔うことで大方の人間は疎外されていた自分をとり戻すことが出来る。忘れていた歌がよみがえり、薄れかかった郷愁が戻っても来る。まっとうな人間らしい感情で素直に人を恨んだり、殺そうと思ったり、手前を嘲けったりできるのも酒が入れば尚だ。甚だ礼儀正しい人間でも酒をのんだらばこそ、気にくわない奴をぶんなぐりも出来ると言うものだ。
下戸は酒のみが酒にのまれた醜態とも痴態とも言うだろうが、酒飲みがその夜最初の盃を口に運ぶ時には、誰しも無意識には自分が酒に酔っぱらうことで、つまらぬ浮世のルールにがんじがらめにされている手前を解き放してやることに期待しているに違いはない。
昔、文士と称する人間がなんで夜毎にああ酒ばかり飲むのか解せず、見知りの批評家に訊ねたことがある。仕事に追われている時、次の仕事にかかる前には一度どうしても意識を中断してかからなくてはやり切れない。新しい作品は作家にとって新しい生き方だ、新しく生きるためには、今までを、たとい一時でも忘れなければ出直せまい、と言う話だったが、今になり我が身にひきつめてその意味がよくわかる。
がなにも小説家だけではない。当り前の勤め人とて同じ話だ。ということは、現代では誰しもがそれぞれの生活に同じように不満や懐疑を抱いて生きていると言うことだ。そして酒はそのギャップを埋めてくれる。
と言うとお古い文句の通り、酒は涙かため息か、心のうさのすてどころ、とはなる。がそうとまで深刻にならなくとも、酔っぱらうことで互いに素直になり、誰にも、就中(なかんずく)、己自身に嘘をつかずにある時間をすごすのは精神の衛生とって甚だいいことに違いない。
大学時代の仲間と話していると、酒の初めにはつまらね道楽や女の話をしていた奴らが、酔うにつれ終り頃には学生時代に交した哲学論のつづきを始めるのはよくわかる。大方、昔の酔っぱらいはその逆だったのではないかと思う。ともかくもみんなは酒のおかげで嘗つての広さで自分の宇宙をとり戻せるのだから。
ともかくわれわれは年中嘘ばかり、自分に対しても、嘘ばかりついて暮しているのだし、そうしなければこの世で生る平衡を保ってもいけないのだから、たとい酒の上でとはいえ、たまには正直に思ったままをぶちまける必要もあるのだ。
僕は情けないことに自身の酒癖と言う奴が余りなくて、尤も酒は誰よりも好きだから一人で酔っぱらってるぐらいは出来るが、癖のないお蔭で大体他人の酒癖にはつき合いがいい。女癖、喧嘩癖、口論、みんなつき合う。つき合いの上で、多少可哀そうとは思いながら見知らね男を河の中へ放り込んだこともある。
大ていの酒の乱れ、癖にはつき合えるが、泣き上戸だけは駄目だ。が見ていてこれが一番うらやましい。
弟の裕次郎は、数多い癖が出つくした後、更に酔いが高じると遂に、泣き出す。泣くというより、泣いて怒鳴る。つまり豪泣と言う奴か。豪泣だけではない、「こんなつまらん家はぶっこわしてやる」なんぞと叫びながらそこら中に体当りし、何しろあの体だから本当に家がこわれそうになる。その挙句、「ああ俺は下らん奴だ。兄貴すまないなけど俺には兄貴一人しかいないんだ。俺を許してくれ!」と、来る。
下らぬかどうかは知らぬが、僕なんぞよりもいろいろな神経が鋭く、人間としても確かに魅力もある弟に、せいぜい僕くらいの根性があれば俳優なんぞよりもっとでかい人間になっていただろうとは僕も思うし、今でも口に出してそう言いもする。
しかし、弟にそういって泣かれると弱いのである。あ奴の豪泣の相手をしている内に、こちらも妙にしゅんとして来て、「いやいや、それがお前のいいとこだよ」なんぞということになる。日頃ろくすっぽこちらの言うことも聞かぬ弟が、今でもなんとなく可愛いのはあながちあの酒癖のせいかもしれないと、思えば兄弟の縁なんぞ妙なものだ。しかしそれも人間の交りのある真実と言うところか。
ともかく酔っぱらったある状態、理解を超えた共感のようなもので酔っぱらいの連れに心が触れ合えたような錯覚はある。錯覚と言うより、その瞬間にはまがいのない真実ではある。どうせしらふに戻った時、われわれはまた何かに向って嘘をつき出さなくてはならないのだから。
なにも酔態、酒の乱痴気の中だけに人間の真実があるなどとは言わないが、酔っぱらいが嘘を言おうとしないことだけは確かなのだから。だから、酒を飲まないと言うような人間をなんとなく信用出来ない。そんな人間は気の毒というより、無気味だ。
ああ、俺は大分酔ったな、そろそろつまらぬ自制がきかなくなるな、とそれぐらいの自覚を一寸通りこした辺りで互いに酔っぱらっているのが一番まともで間違いのない人間のつき合いというものではないか。それに気骨も折れぬ。
しらふでの腹を割ったつき合いなんぞ、それに要する勇気や責任なんぞが多すぎてやり切れない。それに比べれば酒の上でのそれは安直だし安上りだ。そうして酒がさめた時はまたそれぞれが一人ぽっちでいればいい。
酒をのむなら乱れるべしである。一人キゼンとして飲んでいる酒のみなんぞインチキに等しい。