「一人で飲む酒ー草間時彦」中公文庫“私の酒”から

このごろは見掛けることが少なくなったが、昭和三十年代には、屋台の食べもの屋が方々にあった。夜鳴き蕎麦とか、夜鷹蕎麦と呼ぶ蕎麦屋が多かったが、おでん屋も少なくなかった。銀座から有楽町のあたりにも、幾つも店を出していた。まだ、私が若いサラリーマンの時代である。会社の帰りに立寄ることが多かった。立寄るといっても、残業をして、おそくなってからの帰り道である。それも十二月に決っていた。今のように豊かな時代ではない。会社のビルの暖房は六時ごろ切れてしまう。暫らくは余熱であたたかいが、8時ごろになると、すっかり冷え切るのである。背中に外套を羽織っての仕事である。電卓出現以前だから算盤。算盤をはじく指先がこごえる。九時過ぎにやっと解放されて、ビルを出ると、冷たい風が吹き荒れている。思わず外套の襟を立てる。交叉点の信号を待っている時間がことさらに寒い。ようやく、信号が青に変って 、急いで渡ると、おでんの屋台の灯が見える。通り過ぎることが出来ないで、首を突っこむのである。ちゃんとした飲み屋に入ればよいようなものだが、時間もないし、銭もない。
「お酒一杯、熱燗でね。がんもと大根」
部厚なガラスのコップにやかんで燗をした酒を注いで出してくれる。足もとを冷たい風が吹き通る。

おでん酒あしもとの闇濃かりけり 久米三汀

その通りだった。数寄屋橋のあたりを流れる運河がまだあったころだ。川風が足許を吹き、背中に吹き付けるのである。
冷え切った身体に酒が沁み通る。

おでん屋の酒のよしあし言ひたもな 山口誓子

有名な俳句だが、こういう屋台の酒は意外に佳いのである。もっとも、こちらが気を付けて、酒の佳い屋台を選ぶからかも知れない。

亭主健在おでんの酒のよいお燗 富安風生

「いい酒だね。なんていう酒?」
と尋ねると亭主が嬉しそうな顔をして、
「えへへ、田舎から取り寄せている地酒でさあ.....」
と答えることもあった。
おでんの味は関東風の濃い味付けが多かった。もちろん、種の種類は少なかったが、大根がうまかったことだけは、今でも覚えている。これは、大根そのものが良かったのであろう。現今は青首大根ばかりだが、その昔はねりま大根とか、おでん用の大根があった。そのせいではないかと思う。
一杯のつもりが二杯になって、やっとぬくもった身体で、勘定を払い、歩き出すと、近くのビルの地階のキャバレーから、ジングルベルが聞えてくる。バーやキャバレーのクリスマスがはやっていたころである。そういえば、あの時代の馬鹿馬鹿しいクリスマス騒ぎはすっかり消えてしまった。
どうも、私のおでん酒の思い出は師走と結び付いているようだ。今でも、十二月に銀座に出ると、おでん屋に立寄ることがある。もちろん、屋台ではない。ちゃんとした店である。関西風のうす味の店だ。そして、お酒を二本、ゆっくり飲みながら、昔の屋台を思い出す。あのころの自分は若かったんだなと思うのである。
年の暮は、どうしても外で酒を飲む機会が多い。忘年会もそうだが、一人で出掛けたときも、軽く飲んで帰ることが多い。日の暮れることが早いからかも知れない。四時ごろには、もう暗くなりつつある。気が付くと、街の向の空に熱も光もない、赤い太陽が沈もうとしている。

花びらの一片のごと冬日落つ 原コウ子

もう、灯が点っている。花屋の店先のポインセチアの鉢が赤い。年の暮だ。どこかで一杯と思って、立寄るのは蕎麦屋のことが多い。
おでん屋や赤提灯はまだ店を開いていない。その点、蕎麦屋は具合がよい。
「お酒を一本、それから.....」
と考える。肴といっても、蕎麦屋で出来るものは決っている。板わさならどの店にもある。
だが、かまぼこにぴんからきりまであって、どの板わさでも頂けるという具合にはいかない。手製の柚味噌を出してくれるのが並木のやぶ。これはよい。浅草に行ったときは必ず寄ることにしている。鴨なんばんの鴨を焼いて出す店がある。少し重いが、悪くない。十二月といえば鴨のうまくなっているシーズンだ。合鴨でなく、本当の鴨を使っている蕎麦屋があるが、こうなると、鴨なんばんもぜいたくな食べものだ。
冬になると、いつも、どんぶりのおろし和えを出してくれる店がある。とんぶりは帚木の実。東北の産物である。

さみしくてとんぶりの実を食べて酔ふ 草間時彦

ここの御主人は秋田出身らしい。酒も秋田の地酒だった。切れ味のよいさらりとした酒である。
年の暮。その忙しさのなかで、ぽつねんと一人で飲む酒はうまい。忘年会などで、がやがやとした酒が多いので、一人酒がうまいのかも知れない。
忘年会で充分に食べられないことがある。立食パーティーの場合に、そういうことが多い。そういうとき、帰りに一人で寿司屋に立ち寄って、二つ三つ、握って貰いながらの酒もうまい。それも年の暮の酒だ。
若い日のおでん屋台の酒、このごろの蕎麦屋の酒、寿司屋の酒。どれも一人の酒だ。一人の酒がうまいというのはどういうことであろう。年の暮のせいかも知れない。