1/2「 大川の水 - 芥川龍之介」岩波文庫 日本近代随筆選 から

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1/2「 大川の水 - 芥川龍之介岩波文庫 日本近代随筆選 から

 
 

自分は、大川端に近い町に生まれた。家を出て椎の若葉に掩(おお)われた、黒塀の多い横網の小路をぬけると、直(すぐ)あの幅の広い川筋の見渡される、百本杭の河岸へ出るのである。幼い時から、中学を卒業するまで、自分は殆(ほとんど)毎日のように、あの川を見た。水と船と橋と砂州と、水の上に生まれて水の上に暮しているあわただしい人々の生活とを見た。真夏の日の午(ひる)すぎ、燬(や)けた砂を踏みながら、水泳を習いに行く通りすがりに、嗅ぐともなく嗅いだ河の水のにおいも、今では年と共に、親しく思い出されるような気がする。
自分はどうしてこうもあの川を愛するのか。あの何方(どちら)かと云えば、泥濁りのした大川の生暖い水に、 限りない 床(ゆか)しさを感じるのか。自分ながらも、少しく、その説明に苦しまずにはいられない。唯(ただ)、自分は昔からあの水を見る毎(ごと)に、何となく、涙を落としたいような、云い難い慰安と寂寥とを感じた。完(まった)く、自分の住んでいる世界から遠ざかって、なつかしい思慕と追憶との国にはいるような心もちがした。この心もちの為に、この慰安と寂寥とを味い得るが為に自分は何よりも大川の水を愛するのである。
銀灰色の靄(もや)と青い油のような川の水と、吐息のような、覚束(おぼつか)ない汽笛の音と、石炭船の鳶色の三角帆と、 - すべて止み難い哀愁をよび起す是等(これら)の川のながめは、如何に自分の幼い心を、その岸に立つ楊柳(ようりゅう)の葉の如くおの のかせた事であろう。
この三年間、自分は山の手の郊外に、雑木林のかげになっている書斎で、静平な読書三昧に耽っていたが、それでも猶、月に二、三度は、あの大川の水を眺めに行くことを忘れなかった。動くともなく動き、流るるともなく流れる大川の水の色は、静寂な書斎の空気が休みなく与える刺戟(しげき)と緊張とに、切ない程あわただしく、動いている自分の心をも、丁度、長旅に出た巡礼が、漸(ようや)く又故郷(ふるさと)の土を踏んだ時のような、さびしい、自由な、なつかしさにとかしてくれる。大川の水があって、始めて自分は再(ふたたび)、純なる本来の感情に生きることが出来るのである。
自分は幾度となく、青い水に臨んだアカシアが、初夏のさわやかな風にふかれて、ほろほろと白い花を落とすのを見た。自分は幾度となく霧の多い十一月の夜に、暗い水の空を寒そうに鳴く、千鳥の声を聞いた。自分の見、自分の聞くすべてのものは、悉(ことごとく)、大川に対する自分の愛を新にする。丁度、夏川の水から生まれる黒蜻蛉の羽のような、おののき易い少年の心は、その度に新な驚異の眸を見はらずにはいられないのである。殊に夜網の船の絃(ふなばた)に倚(よ)って、音もなく流れる、黒い川を凝視(みつ)めながら、夜と水との中に漂う「死」の呼吸を感じた時、如何に自分は、たよりのない淋しさに迫られたことであろう。
大川の流を見る毎に、自分は、あの僧院の鐘の音と、鵠(くぐい)の声とに暮れていく以太利亜(イタリア)の水の都 - バルコンにさく薔薇も百合も、水底に沈んだような月の光に青ざめて、黒い柩に似たゴンドラが、その中を橋から橋へ、夢のように漕いでゆく、ヴェネチアの風物に、溢るるばかりの熱情を注いだダンヌンチョの心もちを今更のように慕わしく、思い出さずにはいられないのである。

この大川の水に撫愛される沿岸の町々は皆自分にとって、忘れ難い、なつかしい町である。吾妻橋かた川下ならば、駒形、並木、蔵前、代地、柳橋、或いは多田の薬師前、うめ堀、横網の川岸 ー 何処でもよい。是等の町々を通る人の耳には、日をうけた土蔵の白壁と白壁との間から、格子戸づくりの薄暗い家と家との間から、或は銀茶色の芽をふいた、柳とアカシアとの並樹の間から、磨いた硝子板のように、青く光る大川の水は、その冷(ひややか)な潮の匂と共に、昔ながら南へ流れる、懐しいひびきをつたえてくれるだろう。ああ、その水の声のなつかしさ、つぶやくように、拗(す)ねるように、舌うつように、草の汁をしぼった青い水は、日も夜も同じように、両岸 の石崖を洗ってゆく。班女(はんじょ)と云い業平と云う武蔵野の昔は知らず、遠くは多くの江戸浄瑠璃作者、近くは河竹黙阿弥翁が、浅草寺の鐘の音と共に、その殺し場のシュチンムングを、最(もっとも)力強く表す為に、屡々(しばしば)、その世話物の中に用いたものは、実にこの大川のさびしい水の響であった。十六夜清心(いざよいせいしん)が身をなげた時にも、源之丞(げんのじょう)が鳥追姿のおこよを見染めた時にも、或は又、鋳掛屋松五郎が蝙蝠の飛交う夏の夕ぐれに、天秤をにないながら両国の橋を通った時にも、大川は今の如く、船宿の桟橋に、岸の青蘆に、猪牙船(ちょきぶね)の船腹に懶(ものう)いささやきを繰返していたのである。