「高瀬川 - 大佛次郎」大佛次郎随筆全集から

高瀬川 - 大佛次郎大佛次郎随筆全集から

森鴎外の小説「高瀬舟」は日本文学の古典になって、教科書にも出ているし、映画、演劇にも上演され、世間の人が知っている。弟をあやめた囚人が遠島になるので、役人が付いて、高瀬川を舟で護送されて行く。高瀬川は、現在の京都の木屋町通りを流れている水の浅い堀川で、すぐ人家の窓の下を流れる全くの市中の川で、岸の柳影も夜の酒場のネオンライトも水に映る。
現在の川幅は、二メートルぐらいのもので、岸は低く、すぐ道路と並んでいる。あれを舟で送られるのだと、岸すれすれに通るので、悪心あって逃げるつもりなら、ひとまたぎで路面に飛んで出られそうである。高瀬川角倉了以が工事したもので、大阪から淀川を上って来る貨物を、伏見から京の市中に運び入れるために掘った運河である。いまでも舟の終点に「一の舟入り」と称して、舟のたまり場、積み荷を揚げるためだった池が木屋町の通り、京都ホテルの裏手に人家に囲まれて残っている。すぐ隣りに石崖で護岸した黒塀の屋敷が、昔の角倉氏の居宅の跡、多分そこで、運河の使用料を舟から徴集したものであろう。
米俵などを積んだ舟がはいったにしては、今日の高瀬川は幅が狭い。往復の舟がすれ違うこともできそうにない。島送りの流人の舟なら、逃げるチャンスが多くて物騒だろうと、あの通りを歩くたびにいつも疑問にした。その内に何かのときに京都の旧事談を読んでいたら、昔の高瀬川を埋めて現在の木屋町通りができたのだと知った。もとの岸の道は狭く、川幅はいまの三倍近く広いものだったらしい。
三条小橋、四条小橋と名づけて、賀茂川にかけた大橋に続いて、高瀬川をまたぐ小さい橋がかけてある。道路と同じく舗装されて、下の水を見ないと橋とは気がつかず通ってしまう人が多い。修学旅行の学生など必ず渡る橋だが、記憶にとどめることもなかろう。

昔の小橋は、貨物を積んだ高瀬舟をくぐらせるためにアーチ式に高くなっていたらしい。つまり道路から段を昇って橋板を渡り、また段を降りて向うの岸に降りる。舟が下を通るために階段式は当然である。現在の木屋町の風景とはまるで違う風情である。木屋町の名も高瀬川から木材をおろした材木屋が多かったせいで、現在のように門並び旅館と酒場が並んだ町筋ではなかったろう。角倉了以高瀬川を掘った時は、あの土地は賀茂川の川原の一部であった。そこの石や川砂を掘って堀割りを通すのは容易だし、水は賀茂川通せば、比較的容易に運河ができたわけである。賀茂川の本流に並行させ、水流をコントロールした川筋をつけただけである。了以が工事を進め、川原を掘り起こして行くと、ここで処刑された関白秀次のおおぜいの愛妾やその子ども、主人のあとを追って殉死した家来たちの骨をまとめて埋めたあとに鍬があたった。畜生塚と伝説に言っていたもので、たくさんの骨が出てきたので、了以が回向して霊を慰めるために墓を作り寺を建てた。三条小橋のところに町屋の中にはさまって小さい門のある瑞泉寺がそれである。あの辺が一面に石ころだらけの川原で、処刑場の跡だったことを示すものだ。
私がこんな古いことを書き出したのは、湘南沿線の山がくずされて行き青田が埋められて、現在市販の地図ももはや及びのつかぬ激しい変り方を見せているからである。ひと月で地形は変化する。古い昔の飛鳥川、また近世の高瀬川の変りようなど、まったく取るに足りず、人間の意欲か資本の精力で縦横に山が姿を変え、団地住宅がカルタの札のように並び、道路ができ、青田も緑の木々も田園から次第になくなって行く。大変なエネルギーのはんらんである。地理研究所が地図を作るのに困るに違いない。新しく測量製図して印刷に回す時には、もう丘の高さも道路の位置も変っていよう。不思議な時代に我々は住んでいる。高瀬川の移り変りだけでも、後の人間には昔の様子がわからない。跡かたなくなくなった東京市中の築地川が同じこと。平凡尋常な青い丘や、森や雑木山などになると、今日我々に親しくとも十年後にだれが、はっきりと、ここにあったと話すことができようか?