「直木三十五と佛子須磨子 - 林えり子」文春文庫 この結婚 から

イメージ 1

 

直木三十五と佛子須磨子 - 林えり子」文春文庫 この結婚 から
 

直木が昭和九年二月、重態に陥ると各新聞社は記者を病院に詰めきらせて容態や見舞客やらを毎日大きく報道した。文士の自然死(結核性脳膜炎)でこれほど大きく騒がれたことはなかった。銭湯でも直木の容態が噂された。
直木の人気がどこにあったかは彼が大衆文学の流行作家で、芥川が評したように「直木は武士にヒューマニティを与えた」新しい歴史小説を創り出したことにもあるが、彼自身に人気を呼ぶ要素が無数にあった。
直木は文壇や小説の読者だけでなくもっと広く世間一般を騒がす何かを持っていた。むっつりした不敵な面構え、信じられないほどの無口、金銭に対する不合理性、たとえば借金、税金、生活費などは彼にとって出す値打ちのない金であったが無駄な金な らいくらでも出した。女には甘く、しかし女中には給料も渋り酷に扱う。エゴイストで喧嘩好き、大理想を説くかと思えばニヒリストである。彼の矛盾撞着はさまざまなかたちで世間へ伝えられた。直木は「文藝春秋」に一種の文学形式としてのゴシップを書いて文壇に出たが、こんどはゴシップに書かれる役にまわっていた。
直木は一生涯を古着の小商人で通した植村惣八の長男で、この父が苦しい中から息子に学資を送り、彼は早稲田大学に学んだ。その学生時代である。たった一間で友人と共同生活をしているところへぶらりとやって来たのが佛子須磨子であった。大阪の中学時代の同級生の叔母で、芝居の女形のような美人であった。家柄もいいのに婚期に遅れ、直木より六歳上であった。直木は彼 女に恋をした過去があるでなく、将来何事か起るだろうと想像だにしていなかった。
ところが須磨子は一つ蒲団しかないのを承知の上で、「此所に置いてもろていい?」と言った。「宗ちゃん(直木の本名植村宗一)と一緒に寝るわ」と居座った。二晩目、須磨子は「宗ちゃんと一緒になれなんだら死んでも大阪へ帰らんつもりで来た」と上京の目的を告げた。ひょろひょろに痩せて、冬でも天井の抜けた夏帽子を眼深にかぶり、ちびた板草履をつっかけた極端に無口な直木を、彼女は凛然とした好男子と見ていたのだ。
佛子家の反対を押し切って直木は須磨子と所帯を持った。しかし彼女は生涯佛子須磨子と名乗っている。のちに別居するが直木の惨憺たる苦境時代を支えたのは彼女であり、何事に も顔色一つ変えなかった。
直木は菊池寛とめぐりあうまでは彼に与えられるような職業も仕事も何一つ無いかのように、見られていたが、実際は、出版社を二つ三つ経営していた。でも、須磨子が読売新聞の記者になった時期には、直木は生れて一年足らずの赤ん坊のお守り役だった。あぐらを揺りかごにして彼は専ら本を読み、そうして物を書いた。ミルクの調合から飯炊き、おかずごしらえなど堂に入ったものだった。夕方になると少しでも早く子供に母親の顔をみせたいと市電の停留所まで抱いて行った。しかしそれは「三十五」と名乗る以前の話だ。彼のペンネームは植村の植を二分して直木にしたのである。最初に物を書いたときが三十一歳だったから直木三十一、翌年は三十二、大正十三年に三十三と成 長し、ここから大衆小説を書き出した。次は三十四を飛んで三十五でとまり、生涯この名をつかった。
直木のような男に惚れる女はザラにはいないが、惚れたとなると深く長く続いた。高松出身でモダン芸妓として売れた香西織江もその一人で、直木の後半生の伴侶といえよう。晩年には菊池が秘書にと紹介した眞館はな子と同棲して、彼女が直木の死水をとった。他にも彼に惚れた女たち殆んどが彼の不思議なほどの吝嗇にあきれながらも貢ぎ通した。