「社会比較による自己相対化 - 杉本良夫」 ちくま文庫 日本人をやめる方法 から

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「社会比較による自己相対化 - 杉本良夫」 ちくま文庫 日本人をやめる方法 から
 

比較という作業は複雑である。それは「相対化」という原理を根底にしている。しかし、日米の違いだけを比べる作業は、かなり幼稚な一元的相対化にすぎない。日米豪の三ヵ国を組み合わせて、その間の共通点と相違点を腑分けすることもできる。もっと多くの社会を分析の中に取りこんで、その中での日本および日本人の位置を確かめることもできよう。
社会比較を通じての相対化という作業を進めるためには、少なくとも三つの点について気くばりする必要がある。
第一に、いろいろな社会について自分が持っているステレオタイプを総点検しなければならない。対象となる社会は、もちろん日本社会をもふくむ。
私たちはよく「あの人はアメリカ的だ」とか、「それはドイツ的だ」とかいう。この「的」という一語が曲者である。私たちはアメリカ社会とかドイツ文化の特徴について、よく調べあげたうえでの正確な知識を持っているわけではない。持っているのは、アメリカ社会やドイツ文化についての先入観である。目の前に起こる現象が、自分の先入観と合致したとき、私たちは「ナニナニ的」という表現を使う。つまり、「ナニナニ的」という言葉は、話題になっている社会や文化についての特徴の描写というよりは、自分がどういう先入観を持っているかを示す指標なのである。
例えば、「集団主義アメリカ的だ」「メージャー首相は中国的だ」「勤勉は日本的でない」というような命題に出くわして、何となく「それはおかしいのではないか」という気がしたとする。そういう気分が起こるのは、それらの命題が不正確だからだとは必ずしも限らない。確かなことは、各命題が自分の持っている各社会についての固定概念と一致していないということだけである。だから、こういう命題はさまざまな社会について自分がどういうキメツケを持っているかを調べるためのリトマス試験紙であるということができる。
みずからの相対化を進めようとする人は、まずこのような意味での「○○的」「××的」という表現に細心の注意をこめてしか使えないはずである。あるいは全く使えないかもしれない。こうした先入観から自由になることが、相対主義による自己解放の第一歩であると思う。
第二に、国境を越える人びとの間のつきあい、つまり国際文化交流は国家間の権力関係によって支配されていることを常に意識していることである。
そもそも文化交流お基礎となる国際コミュニケーション用の言語が英語であるということ自体、国際権力関係の反映に他ならない。ここ二世紀あまり、世界の権力の頂上にいたのは英米両国だった。かつてイギリスは大英帝国を世界中に樹立していた。現在のところ、世界最強国はアメリカである。この二国の言語が英語であるため、世界で最もよく使われる国際語は英語になっている。英語がとりわけ優れた言語だからではない。
外国から日本への留学生に対する差別感覚の中にも、国家間の権力関係が反映している。白人学生には親切で、アジアやアフリカからの学生には分け隔てをするというのは、北米や欧州が世界権力の中心地帯であるという事実と相関している。もし最近二世紀ほどの間にアフリカが地球上の最強国の集まっている大陸であったとすると、日本人の黒人観がいまとは全く違ったものになっていたことは間違いない。
比較研究の分野では日米比較が圧倒的に多いのも、単なる偶然ではない。地理的にも文化的にも近い位置にある韓国に焦点を当てた分析は少なく、日韓比較は日米比較に比べれば影が薄いのが現実である。これはなぜかを、よくよく考えてみる必要がありはしないか。
私たちの思考を相対化するためには、私たちのものの見方自体が国際間の権力関係によって方向づけられがちであることに気をつけなければならないと思う。そこから自由になる手だてをいろいろ探ることである。
第三に、国家利益と国際利益を混同しないことである。この視点を体得するためには、近ごろ流行の国際化論を綿密に検討してみるといい。いま日本では「国際化を進めよう」といううたい文句が盛んに使われるが、その目標はいったいどこにあるのだろうか。国際化という言葉と共に連想される項目はいろいろある。英語会話を習得しよう。多くの外国人を日本へ呼ぼう。外国へ旅行に出かけよう。海外の情報を収集しよう。外国についての知識を広めよう - 。こういう努力は結構だが、これらはすべて国際化の「手段」に属する事柄にすぎない。この種の行為を積み重ねて、そもそもどういう「目標」を実現しようとしているかについては、ほとんど議論されていない。ここ に重要な 問題がひそんでいる。
多くの国際化論をよく調べてみると、その主張の核心はむしろ国粋的である。日本の商品を海外で円滑に買ってもらうためにはどうしたらよいか。日本政府の国策を外国で抵抗なく受けとめてもらうには、どういう条件が必要か。日本をよく思ってもらうためには、海外向けにどういう宣伝を活発にしたらよいか。こういう問題意識は、「国際化」の目的が実は日本の国家利益を拡大することにあることを示している。その意味では、国際化というよりは国権的である。つまり、ナショナル・インタレストの膨張という「目標」を実現するために、インターナショナリズムのシンボルが「手段」として使われているにすぎない。
こうしたキャンペーンの落とし穴にはまらないように気をつける必要があると思う。世界各地の森林を無計画に伐採して日本で使うことは、日本の産業にとってはプラスかもしれないが、地球全体の環境保護という点からみればマイナスになるかもしれない。日本の原子炉の廃棄物を南太平洋に棄てることは、日本人にとっては頭痛の種が少なくなるのだろうが、世界の安全という点からみればどうなるだろうか。全日制の日本人学校を海外各地に開校することは、外国にいる日本の子どもたちを日本の試験戦争に直結させる意味では日本人駐在員などに安心感を与えるかもしれない。しかし、それは世界の中の国際交流、とりわけ日本の本当の国際化に対する障害物としての機能 を果たす のではないか。
私たちは日本人だからといって、日本国や日本企業の権益を擁護するために努力する義務を負っているわけではない。日本が世界中での強国となったいま、その海外進出は地球住民全体の利益と衝突する側面も数多く出てきている。こういう文脈の中で世界的視野から行動しようとするとき「日本人をやめる」という選択も、しだいに重要な意味を持ってくるのではないかと思う。
ここで「日本人をやめる」とは、日本国籍を放棄するということを直接意味しているのではない。むしろ、日本社会を息苦しくさせている構造、日本文化のなかで自由や自発性を奪いがちな仕組み、日本人の習慣のなかの望ましくない要素などをゴメンだとする行為全般を指している。これには、「闘争」と「逃走」のふたつのあり方があると思う。もちろん、日本国内に住んで、日常生活のレベルで抵抗するという「闘争」の道が、本筋である。私は日本から「逃走」するという亜流の道を選んだが、そちらの方がよろしいなどという気は毛頭ない。しかし、人の意見などというものは、おおむね体験の所産である。私には、自分の経験領域を越えることまで主張を展開できるだ けの自信がない。ふたつのライフ・スタイルを頭に置きながら、本書は亜流の「逃走」型の方に焦点をすえて書いてみた。それが、ここ三十年ばかり私がやってきた作業だったからである。