2/2「私の嫌いな10の人びと(解説) - 麻木久仁子」新潮文庫私の嫌いな10の人びと(中島義道著) から

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2/2「私の嫌いな10の人びと(解説) - 麻木久仁子新潮文庫私の嫌いな10の人びと(中島義道著) から

「事実によって反証されてもびくともしない」というところが肝心だ。メダル予想が外れたからといって画面から干されることはない。それどころか外れたときこそ、選手の口惜しさ、無念さをドラマチックに語るチャンスであり、腕の見せ所と思うようでなければ「売れっ子」にはなれない。事件の報道でも構図は似たようなものだ。人の生き死にに関わる分、スポーツほど無邪気には出来ないが、「正しいほうへ」「優しいほうへ」というのが基準になる。「正しいほうへの法則」により、何人もの人が刺し殺された通り魔事件も、誰ひとり腹痛すら起こしていない賞味期限偽装事件も、同じトーンで厳しく断罪することになる。中国のチベット弾圧にたいする批判は一時熱病 のごとく席巻し、長野での聖火リレーは生放送されるほどの騒ぎになったが、地震が起こると「人権」は吹っ飛んでしまった。弾圧より地震のほうが身につまされる。かわいそうではないか。実際にそういわれてチベット取材のVTRが没になってしまったジャーナリストがいる。こちらは「優しいほうへの法則」である。もちろん気の毒なのは確かだが、それで「弾圧」が相殺されるわけではないはずなのだが。バラエティー番組に至ってはさらに複雑である。登場するキャラクターはそれこそバラエティに富んでなければ面白くない。だからタレントはマジョリティーの輪のぎりぎりの際を追求しなくてはならない。「ホントいいひと」は一人で十分だが、これは「マジ」な人には敵(かな)わない。
「なぜ戦争は終わらないの?なぜ殺しあうの?みんな悪いことだってわかっているのに。悲しいよね!」といってぽろぽろ泣いた女性タレントがいたが、こういう人が最強。あとは「ちょっとお茶目」とか「ちょっと欲張り」とか「ちょっとエッチ」とか。とにかく「ちょっと〇〇」の椅子を見つけて早く座ってしまわなければならない。でなければ「キャラが被ってる」と言われてしまうぞ。「本音毒舌系」はなかなか高度である。彼等は毒舌だが、「皆さん」が密(ひそ)かに胸に秘めているちょっとした欲望を代弁する限りにおいて受け入れられる。たとえば「罰があたればいいのよね」というようなことだ。とんでもないことをズケズケというように見えて「本当かもしれな いけれど それは言われたくはなかった」ようなことは言わない。だから「死んでしまえ」とは言わない。そんなひどいことを望む自分を「善人」たる「みんな」は受け入れないからだ。いずれにせよ「皆さん」の強固な土台があって初めて成り立っているのだ。だから真のマイノリティーはテレビ画面には決して登場しない、できない。だが、多くの人はそのことに気づいていない。気づかないまま無自覚に、日々マジョリティーの一員である確信を強固にしている。
中島さんはそんな「不誠実」を徹底的に暴く。「みんな」イコール「まとも」な側に立って、「みんなとちがうひと」を時に裁き、時に哀れむ「善人」の傲慢さ。それによって自分のまともさを改めて再認識しようとする行為のあつかましさ。「多様な価値観を認めよう」とか「ナンバーワンよりオンリーワン」とかの題目も大流行(おおはや)りだが、いまやこの題目に反対する自由は相当限定されており、「一様に」多様を認めさせられているという本末転倒。結局は「ナンバーワンのオンリーワン」をもてはやす矛盾。
一日の仕事が終わったら、家に帰って缶ビールを開け、「今日はちょっと気の利いたことが言えたな」なんて思いながらぐびっと喉を潤すという私のささやかな楽しみは、こうして『私の嫌いな10の人びと』によって奪われた。もう何を言っても自分の「善人ぶり」に気づいてしまう。マヨネーズの値段が5円だか10円上がったことを憂いて「庶民」を印象づけたりとか、中国人の観光客が日本に殺到という話題に「ぜひ日本のサービスを学んで帰ってほしいものですね」などといってちょっと皮肉を利かせたりとか、いかがなものかと思わざろうを得ない。が、それが仕事なのだし、私だっていつもいつも大船に乗っているわけじゃない。「近頃の若者は残虐な犯罪を犯す者が 増えている」と大合唱のときには、青少年の凶悪犯罪は統計的に減少していることを言い、一石を投じる努力をしたぞ。いや、それがなんだっていうのだ。「大合唱」に違和感を覚える自分、付和雷同するマジョリティとはひと味違う自分に満足しようというならむしろ余計に悪いではないか。
嗚呼。いちいちこんなことを言っていたら「もう大変っ」なのである。だからわたしはとにかく前へ進むことにする。けれども時々、顔をおおって覆って「ううっ」ようめく。そのときだけ普段よりちょっと多めに酒を飲む。そして、中島さんの本に出会ったことを恨みません。やっぱり読んだほうがよかったのだ。「無自覚な独善」というゆりかごからはい出し、「自覚的偽善」という道をヨロヨロと歩む.....。「覚悟」という名の帽子は容易に風に飛ばされるだろうが、そのときは、こけつまろびつ追いかけて、拾い上げるのだ。
まもなく紙面も尽きるここまで「解説」にもならない繰り言を縷々(るる)書き連ねてきた。中島さんはもうわかっているはずだ。こんな風に心のうちを文章にしていることこそ、鼻持ちならない「率直な私」ってやつではないかと。そのとおりなのです。勘弁してください。こんな自分を抱えて生きていこうと思います.....。
さあ。今日も生放送だ.....。