2/2「世阿弥の《風姿花伝》について ー 立原正秋」角川文庫 男の美学 から

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2/2「世阿弥の《風姿花伝》について ー 立原正秋」角川文庫 男の美学 から

このように、年齢に応じた修業方法を述べておりますが、いま原文の引用で示しましたように、世阿弥は単にわざを教えているだけではなく、道を教えているのです。この道を、能役者としての心構え、と解釈してもよいと思います。
つぎに、〈花伝書〉第二に、〈物学條々〉があり、そのなかの「女」項のなかから、すこしながい引用ですが、

舞、白拍子、又は物狂などの女懸り、扇にてもあれ、挿頭(かざし)にてもあれ、いかにもいかにも弱々と、持ち定めずして、持つべし。衣(きぬ)、袴などをも、長々と踏みくくみて、腰膝は直ぐに、身はたをやかなるべし。顔の持ち様、仰げば見目悪(わろ)く見ゆ。俯(うつむ)けば、後姿悪し。さて、首持を強く持てば、女に似ず。いかにも いかにも袖の長き物を着て、手先をも見すべからず。帯なども、弱々とすべし。されば、仕立を嗜(たしな)めとは、懸りをよく見せんとなり。いづれの物まねなりとも、仕立悪くてはよかるべきかなれども、殊更、女懸り、仕立をもて本とす。

と述べております。私が〈花伝書〉のなかで最初にかかわりあったのはこの項目でした。ここには、女の風姿のすべてが表現されているという気がいたします。私は、ここに、小説における女のかたちを見たと思ったのです。もちろん、この「物学條々」の中には、この「女」のほかに、「老人」「物狂」「法師」「鬼」など、いくつかの項目があり、それぞれに要を得た修業方法が述べられておりますが、この「女」の項目の一文ほど、私を惹きつけた文章はありませ ん。後年、私は、この短い文章から、数多くの女性を自分の小説の主人公に変身させ登場させることができました。
さきに申しあげました「年来稽古條々」の十七、八歳の項に、

一期の堺(さかひ)ここなりと、生涯をかけて、能を捨てぬより外は、稽古もあるべからず、

と言っており、十二、三歳から十七、八歳にいたるまでの転換期を、どのように乗りきるべきかを、世阿弥は生涯をかけて、と役者としての経験から出た真実を述べております。そして、四十四、五の項では、原文を引用するとながくなりますので省略しますが、役者としてもっとも煮つめた芸に進むと同時に、相手の役者を引きたてるべきことがのべられております。私にこの項目が理解できたのは三十歳をすぎてからでした。つま り、二十代、三十代、四十代ととしを経るにしたがい、〈花伝書〉が私のなかでさまざまに変貌したとでも申しましょうか。
〈物狂〉の項に、

狂ふ所を花に當てて、心を入れて狂へば、

とあり、これはそのまま、私の小説作法として通用しました。心を入れて狂へ、とは、まことに凄絶な言葉です。「問答條々」の最後に、

一大事とも秘事とも、ただこの一道なり

とあり、一道とは、花の会得をさしているのです。能は花である、と言っているのです。しかし、その花にも「時分の花」「声の花」「幽玄の花」があります。いずれも若さがもたらす花で、年齢、声、姿態などのしわざが咲かせる花だから、やがて散る時がくる、しかし、まことの花は、咲く道理と散る道理を知っているから 、これがまことの久しい花である、と述べております。何度も申しあげますように、花とは美のことです。

能を尽し、工夫を極めてのち、この花の失せる所をば知るべし、この物数を極むる心、則(すなはち)花の種なるべし。されば、花を知らんと思はば、先(まず)種を知るべし。花は心、種は態(わざ)なるべし。

まことに含蓄に富んだ文章で、しかも明確です。これは道元ね〈元成公按(げんじょうこうあん)〉の文体にほぼ似ており、世阿弥が、一道を極めるために道元を読んだことはあきらかです。
彼は、この花のほかに、幽玄という言葉をしばしば使っておりますが、花も幽玄も、ともに、能楽というものまねの対象がもたらす美のかたちであることは申すまでもありません。
私達が〈風姿花伝〉一巻を読んでまず感じることは、一人の能役者が、どのようにしてこれだけ大きな芸術 論を打ちたてられたのか、という驚異です。〈花伝書〉は世阿弥初期の能楽論ですが、後期になると、能芸哲学とも称すべき、きわめて難解な〈花鏡(かきよう)〉〈遊楽習道風見(ゆうがくしゆうどうふうけん)〉〈却来花(きやくらいか)〉などを著しております。そしてこれらの本を通じて感じられるのは、能の耕造論、稽古論、能楽美論いずれをとってみても、すべて、体験的自覚の深さが、そのまま実践的世界に移行し、それがやがてひとつの動じない芸術論をうちたてていることです。そしてこの芸術論が、単に能楽だけにとどまらず、普遍性をそなえている点に、世阿弥の大きさがあると思います。「是非の初心」「時々の初心」「老後の初心」と説き「命には終りあり、能には果てあるべからず」とも述べて おります。ここには、極めてもきわめきれない世阿弥のなげきがあるように思います。また〈花伝書〉の最後に、

たとへ一子たりと言ふとも、不器量の者には伝ふべからず。家、々にあらず。次ぐをもて家とす。人、々にあらず。知るをもて人とす。

というような胸をえぐるきびしい一節があります。これは切れば血の出る言葉です。芸を道にまで高めえた人にしてはじめて言える言葉かと思います。たとえばこの言葉を、当世流行の茶や活花の宗家にあてはめたらどういうことになるだろうか、と考えると、まことに興味深い、と言わざるを得ません。