1/2「夢殿の救世観音 - 広津和郎」岩波文庫 日本近代随筆選1 から

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1/2「夢殿の救世観音 - 広津和郎岩波文庫 日本近代随筆選1 から

「これから夢殿を見に行きます」
私がそういうと、
「夢殿?......それは駄目でしょう」と中村岳陵氏は首を傾げながら云った。到底救世観音の拝観は許される筈がないと氏は云うのである。
それは法隆寺の金堂の中であった。岳陵氏はモンペ姿で金堂の中をわれわれを案内して呉れていた。私は初対面であったがすぐに氏と親しい口をききあった。例の蛍光灯の美しい光線の中で、他の画家達は黙々として壁画の模写をやっていた。われわれは画家達の邪魔になる事を恐れながら、彼等の仕事を窺(のぞ)いて見たりした。驚くべき根気仕事である。恐らく敬虔と熱情との持続を必要とする現代の難事業の一つと云うべきであろう。
私は今までに度々金堂に這入った事はあったが、こんなに明るく照らされた壁画はまだ見た事がない。この金堂が建てられて千年の間、この壁画がこんなに明るい光線の中に浮き上らされた事はいまだ嘗(かつ)てなかったに違いない。
私が日本の仏像にはめずらしいエキゾチックな感じのする四天王を一つ一つ見て廻っていると、
「これを稚拙だと云って片付ける学者があるんですからね」と中村氏は再び私の側に近づいて来てにこにこしながら云った。「稚拙どころか、こんなに素晴しい、力の籠った彫刻を.....」
中村氏はこの金堂に毎日籠っているお蔭で、少し芸術の何ものかが解ってきましたと云った。- その謙遜な言葉の中には、みずみずしい喜びがあふれていた。
「壁画ばかりがこの金堂の中ですぐれているのではないので......仏像という仏像が皆素晴しいので、ここでこうして仕事をしているのがとても愉快です」
中村氏は中でも四天王が素晴らしいという事を度々繰返した。私もこの明るい光線故に、この四天王のすばらしさに今日始めて気がついたのである。それだから仔細に見て廻っていたのである。
夢殿は前以て交渉して拝観がゆるされる事になっていると聞いていたのに、途中でどうやら形勢が六ヵ敷(むずかし)くなって来たという囁(ささや)きがきこえた。どうも中村氏の云う通り、到底望みがないのかも知れない。
久米君と増田君とが管長に直接談判に行ったというので、その結果を待つ事にした。私はこの一行に途中から割り込んだので、前以てどういう交渉がしてあったのか知らなかった。それで夢殿が見られなければそれも仕方がないと思っていた。この金堂だけでも相当満足だと思っていた。
間もなく久米君達が帰って来た。交渉の結果、快く許可されたというのである。
「やっぱり夢殿は見られるそうです」
中村氏に云うと、
「おお、そうですか、それは好い。是非見ていらっしゃい」と中村氏はわが事のように眼を輝かして喜んで呉れた。そして「世界一ですよ。........ 割切れませんよ」と云った。
私はその「世界一」という言葉と、「割切れませんよ」という言葉とを耳に残しながら、金堂を出て行った。
二十歳を越して間もない若い坊さんが、ちびた草履を穿き、無造作に鍵を手にしながら、われわれを夢殿に案内して行った。
「見たら吃驚(びっくり)しますよ。大したものではありませんよ」私と丁度並んで歩いていた森君がにやにやしながら囁いた。それは一種の反語で、「案外皆さんは大したものではないと思うかも知れませんよ」というような意味だったのかも知れないと思いが、或は又ほんとうに森君は森君の見方から「大したものではない」と思っているのかも知れない。
森君は京都の美術研究家で、私は前から面識があるが、同君が昔小島政二郎君の教え子だったという事は今度始めて知った。それでこの森君に京都、奈良の美術を案内して貰おうというのが、小島君には去年以来の懸案だったのだそうである。
この旅行は文芸春秋社が、銃後の運動の講演者達を奈良に招待した旅行であったが、この機会を利用して、小島君はその日頃の懸案を実現しようというので、森君を京都から呼んだわけなのである。それだからこの美術行脚は奈良にきた連中の中のほんの一部の人々の計画であった。 - 私は文芸春秋社の招待に応じてぼんやり奈良にやって来たのであるが、この計画を聞くと、逸早(いちはや)くその仲間に割込んだ。
若い坊さんは黙々として私達を案内して行った。夢殿の外廊下には一般の拝観者が何人か動いていた。
若い坊さんは堂の裏側の格子戸を鍵で開けて、われわれを堂内に導いた。併(しか)し格子戸は唯(ただ)閉めただけで、後に鍵をかけては置かなかった。
救世観音の厨子を開く前に、坊さんは香を焚き読経した。簡略ではあるがその儀式がわれわれの心を鎮め、やがてそのお姿を現して呉れる秘仏に対する心の準備を与えて呉れた。