1/3「喜びは不安に由来する - 茂木健一郎」筑摩書房 今、ここからすべての場所へ から

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1/3「喜びは不安に由来する - 茂木健一郎筑摩書房 今、ここからすべての場所へ から
 
夕暮れの街を歩いている時などに、ふと、理由のない不安の発作にかられることがある。
日常の中で自分を規定している関係性や社会的な位置づけなどが解け、たった一人でこの世界の中に投げ出されているような感覚。かつてフロイトサルトルのような偉人たちが論じたような、存在論的な不安。
子どもの頃からそうだった。大人になって、社会に慣れ、自分の居場所のようなものができ、普段はそんなことを意識しなくなっても、なお時々発作に襲われる。
誰でも例外なく裸で生まれてくる。産み落とされた私たちはすぐに産着で包まれ、社会の網の中へと接続される。
「自分は何ものなのか?」
その根源的問いを、私たちは次第に正面からは問わずに済ませてしまうようになる。夕暮れの街を一人用もなく歩くというような、仕事でもプライベートでもない、特定の文脈から突き放された場所に身を置く時に、初めて「自分は何ものなのか」と改めて問い直すことができる。夕暮れから立ち上がる何ものかが、私の心をかきむしるのだろう。
それは、決して死の恐れなとではない。むしろ、生きることそのもののど真ん中にかかわるような何かである。その時、私は、むしろ十全に呼吸している。「ああ、私は生きているのだ」と実感する。若々しさの中で戦慄しているのだ。
魂に突き刺さった甘美なトゲ。もしそのまま胸の中の小さきものでいてくれれば、一つの淡い自己肯定にも着地させることさえできるかもしれない。その感情はしかし、ひとたび劇症化すれば、必ずやムンクの『叫び』の禍々しい表情の表出へと変貌する。生命において最も大切なものは「バランス」であって、どんな傾向も行きすぎれば毒になる。安心立命の境地も、存在論的不安も。
意識をもち、理性を持つ人間も、地球上の様々な生物の一つに過ぎない。ノルウェーの哲学者アルネ・ネスの提唱する「ディープ・エコロジー」の思想に基づけば、全ての生命は固有の価値を持つのであって、人間だけが自らを特別だとみなす根拠があるのではない。生態系の中で存在論的不安は、人間だけの特権だとは思えない。長い進化の過程で、存在論的不安もまた、少しずつ変形して存続してきたのであろう。
満月の夜、いっせいに放出されたサンゴの卵は、そのほとんどが着生する前に食べられてしまう。ミミズは、地面の中で息を潜めて天敵のもぐらが近づくことを感知しているのかもしれない。
ドドドドドド、ドドドドド。
ミミズから見たらもぐらはまさに巨大な怪物「リヴァイアサン」であって、その接近は一つの畏怖すべき世界の揺らぎそのものである。土の中を這いずり回り、土を食べ地表に噴出するその懸命な生の最後に、もぐらの熱い舌に遭遇したミミズは、そこに生きることの残酷な運命を悟るのだろうか。
ああ、世界は、なんと生きることの不安に満ちた場所なのだろう。しかし、生命の最も甘美な夢は、その不安をこそ母としているはずだ。生きる。そして死ぬ。不安だからこそ、希望を抱く。そのような太古から変わらぬ教えが、私が夕暮れに時折感じる何とも言えない不安の中に潜んでいるように思われる。