「新幹線にて - 伊丹十三」読鉄全書から

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「新幹線にて - 伊丹十三」読鉄全書から

その時僕は、東京駅の十八番フォームで、十四時十五分発のひかり五号が来るのを待っていた。発車の時刻までには、まだ三十分以上も間[ま]があったろう。僕はいつもやるように、後ろに廻した両手で丸めた週刊雑誌を持ち、トントン、トントン、と片足二回ずつの足踏みをしていたように思う。
恐らく、これがなにかの暗号と合致してしまったものに違いない。突然隣りに人の気配がしたかと思うと、男の声が
「会員の人だね?」
と囁[ささや]きかけてきた。
振り返ると、真黒に陽[ひ]焼[や]けした、鬚面の男がじっと僕の顔を見凝[みつ]めている。
会員?一体何の会員だろうか?驚きながらも、僕は強い好奇心に捕われ、咄嗟[とつさ]の判断で、この謎の正体を追求してみようと決心した。
「いや、会員というわけでもないんだが-つまり、会員の紹介でね、ここでナニしていればアレだというから-今日はアッチの方はどうなってるのかしら?」
できるだけ当たりさわりのないことを、すらすらと答えて反応を窺った。
「品物は用意してある」
男は僕を信用したものか、鋭い目を周囲に配りながら答えた。
品物?一体何の品物だろうか、エロチックな写真であろうか、それともハシシかマリファナの類[たぐい]であろうか-
「利用するのは初めてだね?」
「そうそう」
「では、まだ会員券持ってないね?」
「まだです」
「じゃあ、悪いけどちょっとこれに記入してください。あくまでも会員制ということにしておかんと、当局が五月蝿[うるさ]いもんだから」
身分証明書のようなカードを差し出した。見ると「新幹線サーヴィス協会会員之証」とある。
してみると何かサーヴィスを受けられるのだろうか?そうだ、これはなにか新手のコール・ガール組織なのかも知れんぞ。カードに住所氏名を記入しながら僕の胸は高鳴った。
「このカードはどうするの?」
「ああ、それはあんたが持っとってください。受け渡しの時文句いわれたら、これは商売じゃなくって、会の活動なんだということで云い抜けられるからね」
「なるほど、そりゃそうだ。うまいこと考えたね、おじさん」
僕は、なにがなんだか皆目見当がつかなかったが、鬚の男に一と言でも余計に喋らせて手懸りを掴もうと、熱心に相槌を打った。
「あんた座席は?」
男は僕の御世辞には答えず、別のことをいい出した。
「10号車の8のAだけど」
「じゃあ、品物はあとで席のほうへ届けるがね、なんせその場で金のやりとりってわけにもいかないんでね、悪いけど金のほうは今、前金で払っといて貰いたいんだな」
「いいよ、いくら?」
「入会金が五千円と、今日の分が三千円で、計八千円だね」
今日の分が三千円-ということは、これはコール・ガールの線ではありえない。してみると、やはりこれはポルノグラフィーの方向なのだろうか。しかし、それにしては、男の顔立ちや物腰に、全く卑しげなところが見当らぬ。それどこらか、この男には、どこか超然と浮き世離れのした、哲人めいた風格さえ備わっているようだ。

僕は、金を払いながら、更に探りを入れてみた。
「どう?儲かる?」
「ン?ああ、まあ自分一人食って、好きなことするくらいは儲かるね。一人でやってるから人件費はいらないし、第一税金がかからないからね」
「ふうん-で-大体なんだってこういう商売始めたわけ?」
「-」
男は突然ピタリと口を噤[つぐ]むと、新聞を目の高さに掲げて読み始めた。僕は、シマッタ!これはよほどまずいことを云ってしまったのかと、一瞬ギクリとしたが、そうではなかった。僕たちの傍らを鉄道公安官が二人、油断のない顔付きで通りかかったのであった。
「なんでだろうかねえ、多分俺は人助けが好きなんだろうな」
公安官が通り過ぎるのを見送りながら男は澄まして答えた。
「俺はそもそもはね、医者なのよ」
「ヘエ、お医者さんですか」
「ウン、外科のほうなんだがね」
「それがどうして-」
「いや、まあ、医者の世界が性に合わなかったんだね。ありゃあ、あんたなんか知らないだろうけど、まあ、封建的というか、昔ながらの年功序列と派閥の世界でね、私みたいに地方の国立大学出なんてものは、あんた、古手の看護婦に顎で使われるからね、繃帯[ほうたい]巻きなんかやらされてさ」
「繃帯巻き-」
「うん、洗濯機で洗った繃帯をこう、もつれを直して巻くわけなんだが-」
「ああ、その繃帯巻き。フーン、それなもんですかねえ、お医者の世界って」
「ああ、そんなもんだよ。だから喧嘩して飛び出しちゃった」
そういわれて見直すと案外若い男のようでもある。三十代の半ばというところだろうか。陽妁けと鬚面で十年は齢を取って見える。
「随分妁けてますね。それもやっぱり商売柄ですか?」
「いや、これは山よ」
「山?登山ですか?」
「いや、登山ってんじゃなくてね、俺が、人生で一番やりたいのは書なのよ、書道。でね、俺は、今、雪山の中に立っている枯木-というか、すっかり葉っぱを落して裸になった木ね、あれにすごく惹かれてるんだな。あの、節くれ立って曲りくねっている幹ね、あるいはまた幹から分れて伸びている枝ね、それからまた、その枝から、箒[ほうき]みたに生えている小さな枝の一本一本ね、このどれをとってみても実に力が籠ってるんだな。あれをなんとか自分の書にとりいれたい。あの力ね、緊張ね、あの、自然のあらゆる厳しさに打ち克って伸びた、あの木の枝の線ね、あれはあんた、筆の先が、常に弾力を蓄えて活きていないと出ない線なんだ」
「-」
「俺は、こうやって商売やって金を貯めちゃあ、雪の山へそれを睨[にら]みに行く。あんたスキーはしないかね?」
「スキーは割によく行くほうだけど」
「じゃあ見てる筈だよ。リフトにでも乗りゃ、あたり一面に生えてるからね。あの筆勢なんだなあ。枯れていて、しかも力強い-」
男は、ここで言葉を切ると、暫[しば]し、空を見上げて、思いを遠く雪の山に馳[は]せる風情であった。
僕は、今まで数え切れぬくらいスキー場へ行っていながら、一度もそのような脱俗的な感興に涵[ひた]ることもなく、ただただ遊び呆[ほう]けていた自分が、なんとなく恥ずかしく思われて、頭[こうべ]を垂れて足許を見凝めた。
やがて、列車の到着を知らせるアナウンスが始まり、男は「品物」を取りに行くと云いおいて、人混みの中へ大股に姿を消した。僕は結局、男の商売も、扱っている商品も判らぬままに車中のひととなったのである。

席に着いて間もなく、男が戻ってきて僕に紙袋を手渡した。何か四角いものがはいっているらしく、手にもつとずしりと重い。
男が窓の外から目礼して立ち去ったあと、僕は早速袋を開いた。
中身は-
中身は、風雅な鳥の子紙に包まれた弁当であった。包み紙の意匠は、男の云っていた枯枝らしいものが、水墨画風に描かれている。
なるほど!男は会員制の弁当屋であったのだ。新幹線の食事の不味さは四海に轟いている。そうして、旨い物さえ食えるなら、多少の出費は厭[いと]わぬという人士も世の中には寡[すくな]くないのであろう。
汽車が動き出して間もなく、僕は丁寧に包み紙を解[ほど]いた。京風の十二角折りの杉の折詰めに、男の蹟[て]なのであろう、毛筆で書いた献立が添えられている。僕には書のことはまるで判らぬが、陸機[りくき]の平復帖を思わせるような、禿筆を用いた渋い筆蹟が紙一面に躍っていた。
折箱 盛付
青竹筒入、さより細作り。焼抜蒲鉾[やきぬきかまぼこ]。春日小鯛鹽焼[かすがこだいしおやき]。車海老、獨活[うど]煮合せ。若狭ぐじ、木の芽壽し。雁もどき、竹の子、木の芽。鰻巻き玉子、芽生姜。西瓜奈良漬。
僕は、折箱の蓋を取って、その美しい弁当を暫し目で愉しみ、やがて、一と箸ずつ、心を籠[こ]めて噛みしめていった。