「漕代駅 - 大辻隆弘」ベスト・エッセイ2023 から 

 

漕代駅 - 大辻隆弘」ベスト・エッセイ2023 から 

私の家から歩いて二分のところに漕代[こいしろ]駅という小さな駅がある。
近畿日本鉄道の山田線、松阪から南にくだって三つ目、田んぼのなかにポツンと建っている駅である。急行列車は止まらない。各駅停車の電車が一時間に二本ほど停車する。

小さいけれど漕代駅は便利な駅だ。ここから電車に乗って特急に乗り換えると、名古屋へは一時間半、大阪へは二時間でいける。短歌関係のイベントであちこち飛び回っている私にとってはとてもありがたい存在なのだ。
漕代駅は私の遊び場でもあった。子どものころ、私は夕方になると、いつもこの駅に行った。そして、電車からおりて来る祖父を待った。
祖父は三交代制の工場で働いていて、昼勤が終わると四時半着の上り列車でここに帰ってくる。祖父が電車から降りてくると、私は彼の腕に飛びついて、家まで帰ったものだった。
漕代駅には駅員がひとり配置されていた。担当する人はたびたび変わったが、ほとんどの駅員は、高校を出たばかりの青年だった。彼らは私を見るとひどくかわいがってくれた。多分、自分の弟か従弟くらいの感覚で私を見てくれていたのだろう。
電車は半時間に一本なので駅務は比較的暇だったらしい。本当はいけないことなのだろうけれど、駅員のお兄さんは私を駅舎のなかに入れて、いろいろなものを見せてくれた。
切符の販売口には、小さな椅子が据えられていた。切符はボール紙の硬券。席の右側には、硬券が行先順にズラッと並べられた木の棚が見える。お客さんが来ると、青年はその棚に並んでいる「硬券差し」と呼ばれるジュラルミンの枠から、躊躇することなく一枚の切符を取り出す。そしてそれを黒い鉄の機械に通す。
ガチン、と音がしてそこに日付が印字される。その手付きが実にスマートでかっこよかった。あの鉄の機械は「ダッチングマシン」というらしい。後から調べてわかったことだが。

青年は駅員の七つ道具を私に見せてもくれた。切符を切る改札鋏は子どもの手にはずっしりと重かった。青年は私の目の前で、いかにも得意げに、それをカチカチカチッとすばやく打ち鳴らした。四角い形をした合図灯も見せてくれた。把手[とって]のついたそのランプは両面に電球がついていて、表は白、裏は赤。夜はこれを使って電車に合図を送るんだ、と青年は誇らしげに言った。
小さな駅舎の奥には、一畳半ほどの仮眠室があった。端の方には布団がきちんと折りたたまれて積まれていた。終電から始発までのわずかな時間、彼はここで短い睡眠をとるという。その部屋を見て、私は、自分が駅員になった日のことをぼんやり想像した。
深夜、終電車の赤いテールランプが闇のなかへ消えてゆく。私はそれを指で差して確認する。駅舎にもどり一日の業務日誌を書く。灯りを消す。仮眠室に布団を敷く。布団のなかで目を閉じる。真夜中の駅はきっとシーンと静まり返っているだろうな。一人で寝るのは寂しいだろうな。家に帰りたくなるかもしれない。でもこんな狭い部屋で体をすぼめて寝られたら、まるで秘密基地にいるみたいでちょっと楽しいだろうな。
そんな子どもらしい、たわいもない想像をしながら、ちょっと汗の匂いのするその部屋を眺めたものだった。

電車は今も昔も子どもたちのあこがれの的である。ほとんどの子どもは運転士になりたい、と思うようだ。が、私はちがった。私の夢は断然、駅員さんだった。
こんな小さな駅舎にひとり暮らして、切符を切ったり、指差し確認をしたり、合図灯を振って信号を送ったりする。数かぎりない斜線が引かれているダイアグラムを見てお客さんに乗換時刻を教えてあげたり、プラットホームの花に如雨露[じようろ]で水をやったり、そなえつけの駅のトイレを掃除したりする。
そんな風に一日を過ごせたらどんなにいいだろう。そうして朝から夜まで一生懸命働いて、私は、あの秘密基地のような仮眠室で膝をかかえて眠るのだ。私はそんなことを夢見るような子どもだった。
漕代駅無人駅になってもう十年以上になる。青年がいた小さな駅舎はトタン板でがっちりと閉鎖された。駅頭にはタッチパネルの自動改札機がポツンと置かれている。
なにかすべてが夢のようだ。