3/3「もの食う女 - 武田泰淳」文春文庫 もの食う話 から

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3/3「もの食う女 - 武田泰淳」文春文庫 もの食う話 から

それから一個月、かみそりの刃を渉るような弓子との関係で息がつまり、私は喫茶店へは足を向けませんでした。弓子とあえばかならず飲食を共にしましたが、調子は房子の場合と全く異なります。虚々実々、盃をふくむにも、フォークを握るにも、多角的な神経の酷使、八方にらみの形でした。北京育ちの弓子は、寿司を食べても魚類の名称に無関心で、また板に出されたあわびを「あれたこ?」ときき、ひらめをかれいと言い、あなごを「あの魚を裏返しにしたような奴」と注文します。口に何か入っていてもたえず考えにふけり、歩くとつかれ、接吻一つするにも不安動揺がつきまといました。しかし結局、私はこの都会のくずれた精霊のような女が好きなのでした。そのた め悩み、喧嘩もしました。
そんな一日、雨の駅で房子に遇いました。ぬれしょぼれた髪が耳や頬にまつわりつき、足の指は水しぶきのため赤みをましています。日傘は六回ばかり雨にあたってから破れたとのことでした。「雨のひどいとき、あれをさしていたら、みんな笑ったわ。でもずいぶん役に立ったわ」それを買ってもらったことをまだ感謝していました。「Tさんが来ないから、みんな、わたしが棄てられたんだって言うのよ。だって一月半も来ないんだもの」と単純な不平ももらしました。彼女を店まで送り、昼飯を共にすることにして、神田の駅で降りました。取締厳重の日で店はあらかた閉っていました。駅前に新しく出来た奇麗なとんかつ屋がガラス戸をあけている。それを見ると「お客さんが、 こことても高いと言ってたわ」と彼女が注意しました。
清潔なエプロンをかけた女給の運ぶ料理は、立派な容器に容れられ、重みのあるナイフ、フォークがそえられていました。彼女は満足し、ゆっくりと味わいました。私を見つめる目が、遠くの山でも眺めている感じになりました。
そのとんかつは私にも特別うまく感ぜられました。それから寿司を食べる段になると、彼女は「わたし知っているところがある」と、私の傘の下で身体をちぢめながら、裏通りの淋しい路へ案内しました。そこはガラス戸ばかり多い、狭い氷屋でした。「汚いでしょう、ここ」と彼女は気がねしました。はげ落ちた壁の下から薄い板が見え、横のガラス戸の外ではゴミ箱が雨にぬれていました。「氷イチゴ十円、氷レモン十円 。特別甘イ」と書かれた貼紙も色あせていました。壁にじかに長い板をうちつけ、それがテーブル代りにされている、いかにもわびしい場所でした。
「ここに貼ってある写真はみんな、物を食べているところよ」と彼女が説明しました。見ると壁の写真はみな外国の映画俳優が食事している光景でした。美しい洋服の男女が楽しげに顔向きあわせて朝の食卓につき、ミルクやパンや名前のわからぬ数々の料理を前にしているのもあり、女優一人が鶏の片足をあぐりと大口あけて食べている情景もありました。中には水着の体格よき青年男女が談笑しながら、ボート上で何かビンの飲物を手にしているのもあります。それらいかにも人生の幸福を象徴する如き多種多様の白人飲食の写真は、どれも日光で変色して、そ この壁にへばりついていました。こんなことを考えついたここの主人のつつましい工夫、それを面白そうに無心に説明する彼女、それは豪華活発な外国の食事の精神にくらべ、いかにも片隅のジメジメした寂しさを感じさせました。
「のり巻だけですって、それでいい?」と彼女がたずねてから、永いこと待たされました。栄養の悪そうな痩せた、髪のうすい主人は、小さな皿に卵の寿司とのり巻を容れて運んで来ました。そしてすむとすぐ皿を取りに来て「今日は厳重ですからね」と、ささやくように弁明しました。
房子の喫茶店でカストリを飲み、二つ三つ用をすませて、九時頃またそこへ寄りました。丁度帰り仕度していた彼女とつれだって外へ出ました。豪雨のあとで、雨はきれいにあがっています。 私は泥酔に近い状態でした。駅に着くと、例のとんかつ屋はまだ明るいので、又店へ入りました。味もわからず食べておわりました。何だか肉が、昼の時より薄く、かつすじ張っているようでした。だが私の瞳に彼女の顔が、恍惚と酔った風にうつりました。房子はそこを出てから大福餅を買いました。
会社線はやはり終電車でした。送って行く闇の路で、私はこの前よりなお一層乱暴に彼女を愛撫しました。「怒る?」ときくと「女って、こんなことされて怒るかしら」と、彼女は私の自由にさせていました。細いゆるやかな坂道が、下ってまた上がっている、その暗い長い直線の路に、かなりの距離をおいて、外燈が三つ四つぼんやりともっています。彼女の家へ曲がる横丁の所で私は急に「オッパイに接吻したい!」と言いました。それがこんな場所で可能であるとか、彼女が許すとか、それら一切不明の天地混溟(こんめい)の有様でその言葉が、嘔吐でもするように口を突いて出てしまったのです。すると彼女は一瞬のためらいもなく、わきの下の支那風のとめボタンを二つはずしまし た。白い下着が目をかすめたかと思う間に、乳房が一つ眼前に在りました。うす黄色く、もりあがって、真中が紫色らしい。私は自分がどのようなかっこう、どのような感情を保っているのかも意識せずに、そのふくらんだ物体を口にあて、少し噛むようにモガモガと吸いました、そしてすぐ止めました。何か他の全くちがった行為をしたような気持、あっけない、おき去りにされた気持ちでした。彼女はやさしく笑って、「あなたを好きよ」と、振り向いて言うと、姿を消しました。私は大股に駅に向って歩きました。もちろん電車はないので、駅を通りすぎ、友人の家の方角に向って、のめるようにして歩きつづけました。胸苦しく、はずかしさと怒りに似たものが重く底にたまり、その感覚はますます強まりま した。不明瞭な、何かきわめて重要な事実が啓示される直前のような不安が、泥酔の闇の中に花火の如くきらめきました。
「あれは何だろうか。彼女の示したあのすなおさは何だろうか。あれは愛か」と私は揺れる身体をわざと揺すらしながら考えました。「もしかしたら、あれは、御礼なのではないか。とんかつ二枚の御礼なのではないか。彼女はまるで食欲をみたす時そっくりの、嬉しそうな、又平気な表情をうかべていたではないか。食べること、食べたことの興奮が、乳房を出させるのか。ああ、それにしても自分は彼女の好意に対して、何とつまらぬ事しか考えつかぬことだろう。ああ、まるで俺は彼女の乳房を食べたような気がする。彼女の好意、彼女の心を、まるで平気で食べてしまったような気が する.....」
友人の家にころがり込んでからも重苦しさはつづきました。「食欲、食べる、食欲」と私はうつぶせになってうなり、それからすすり泣く真似をしました。泣くのが下手な以上、その真似をするのが残された唯一の手段のように考えたからでしょうか。
(「玄想」昭和23年10月号)