「理不尽な絶滅 - 吉川浩満」ちくま科学評論選から

 

 

「理不尽な絶滅 - 吉川浩満」ちくま科学評論選から

ラウプは、絶滅生物たちがどのようにして死に絶えるにいたったかを、古生物学上の化石記録や統計データを駆使して調べ上げた(彼はコンピュータを用いた統計解析やシミュレーションを古生物学に導入したパイオニアである)。そこで彼が注目したのは、絶滅する生物がたどる特有の筋道である。絶滅生物にはみなそれぞれに異なった事情があったにはちがいないが、それでも、絶滅へといたる筋道にはいくつかの特徴的なパターンが見出だされる。分析の結果、絶滅の筋道は煎じ詰めれば次の三つのシナリオに分類できると彼は考えた。いわば「絶滅の類型学」である。
それは次のようなものだ。

1、 弾幕の戦場 (field of bullets)
2、 公正なゲーム (fair game)
3、 理不尽な絶滅 (wanton extinction)

生物の歴史において、どのシナリオによる絶滅も、ある時ある場所ある規模において起こったし、いまでも起こっていることはまちがいない。しかし、ラウプがとくに重視するのは第三のシナリオだ。
このシナリオこそ、話をややこしくすると同時におもしろくする張本人である。どうしてややこしくするのかというと、これが第一のシナリオ(弾幕の戦場)と第二のシナリオ(公正なゲーム)の組み合わされた複雑なシナリオであるからだ。どうしておもしろくするのかというと、現在の生物の多様性が生みだされるうえで支配的な役割を演じたのがこのシナリオだと考えられるからだ。いわば進化(論)のややこしさとおもしろさを一身に体現したシナリオなのだ。

さて、理不尽な絶滅シナリオを要約すれば、次のようになるだろうか。すなわち、「ある種の生物が生き残りやすいという意味ではランダムではなく選択的だが、通常の生息環境によりよく適応しているから生き残りやすいというわけではないような絶滅。」と。あるいは、ある種の性質をもった生物だけが生き延びやすいという意味では選択性が働いている絶滅だが、普通の意味で「環境に適応したから生き延びられた。」とか「適応できなかったから滅んでしまった」とはいえないような状況における絶滅ということもできる。ひとことでいえば、遺伝子を競うゲームの支配が運によってもたらされるシナリオということだ。いまの段階ではちょっとピンとこないかもしれないが、具体例を見たあとに読み返ぜば、なるほどと思えるはずだ。
ここで恐竜たちの話をしないわけにはいかない。恐竜なんて知らない、そんなの聞いたこともない、なんて人はいないだろう。化石や骨格標本、想像図などを見たことのある人も多いと思う。よく知られているとおり、彼らは約六五〇〇万年前の白亜紀末に一匹残らず絶滅してしまった。そのきっかけが天体衝突であったことも、テレビ番組などでたびたびとりあけられているので、もはや常識に属することかもしれない。
他方で、その絶滅の過程がどのようなものだったのかについては、一般的にはそれほど知られていないのではないかと思う。というより、恐竜の絶滅に過程があったということ自体、ほとんど意識されることがないのではないか。つまり、恐竜たちは天体衝突によって吹き飛ばされるなり焼き殺されるなりして、一挙にこの世から消えてしまったのだと思われているのではないか。他方で、恐竜は図体[ずうたい]がデカくなりすぎたせいで絶滅したのだ、などともいわれる。二つの通説はたがいに相容れないものだと思うのだが、どちらももっともらしい話のなかによく登場する。同じ人が時と場所に応じて前者のようなことを言ったり後者のようなことを言ったりすることさえある。つまり私たちはなんら抵抗なくどちらも同じように信じているように思えるのだ。妙な話だが、どうもそんな気がする。
もし恐竜が天体衝突によって一挙に絶滅してしまったのなら、彼らは第一のシナリオ、つまり弾幕の戦場によって絶滅したことになる。また、もし恐竜が図体の大きさによる適応力不足によって絶滅したのなら、彼らは第二のシナリオ、つまり公正なゲームによって絶滅したのだということになる。でも、実際には彼らの絶滅は、弾幕の戦場によるものでも公正なゲームによるものでもなかったと考えられている。つまり彼らは第三のシナリオ、すなわち「理不尽な絶滅」の犠牲になったのである。

以下、実際にチクシュルーブ・クレーターの地質調査を行った惑星科学者の松井孝典[まついたかふみ]と地質学者の後藤和久の記述をもとに、その次第を追ってみよう。
恐竜とは、三畳紀後半の二億数千年前に登場した一群の生物で、分類学的には爬虫綱の竜盤目(ティラノサウルスやメガロサウルス)と鳥盤目(トリケラトプスやイグアナドン)に加えて、一億数千年前のジュラ紀後期に出現した鳥類を含めたものを指すとされる(だから窓の外に見えるスズメなども恐竜の子孫である)。でも、一般に恐竜といえば鳥類を除いた「非鳥型恐竜」を指すし、恐竜絶滅にかんする諸研究にもそうした慣習があるので、本文もそれにならおう。
さて、白亜紀末の天体衝突は大規模な弾幕の戦場シナリオをもたらした。でも、自見には続報がある。衝突で巻き上げられた大量の塵は天然のナパーム弾となって大地を焼き尽くしたが、一部の小さな塵は宇宙空間にとどまり、地球へ降りそそぐ太陽光をさえぎることとなったのである。その結果、「衝突の冬」と呼ばれる地球規模の寒冷化が起こったと考えられている。
太陽光の遮断は、数ヵ月から数年にわたってつづいたようだ。それによって既存の食物連鎖が崩壊したことが、恐竜全滅の最大要因だったと考えられている。まず、太陽光がさえぎられたことにより、陸上植物や植物プランクトンといった光合成生物が死滅した。食物連鎖の基底にいた光合成生物の絶滅によって、それらの植物を食べる草食恐竜が絶滅し、そして草食恐竜を食べる肉食恐竜も絶滅してしまった、という次第である。
寒冷化も相当ひどいものだったらしい。天体衝突後一〇年程度のあいだに、最大一〇度の寒冷化が起きたようだ。ひょっとすると、「一〇度の温度差なんて平気だよ」と思うかもしれない。ところが、地球の平均気温というものは一度下がるだけで飢餓や疾病を頻発させるほどの影響力をもつ。ヨーロッパ史で「一七世紀の危機」と呼ばれる飢饉や健康状態の悪化(人間の平均身長も二センチ下がったといわれる)は小氷期という寒冷化が原因だったといわれることがあるが、それでも平均気温の下げ幅は一度にも満たない。それが一〇度も下がったのである。これも恐竜たちを不利にしただろう。
さてここで、先に掲げた理不尽な絶滅シナリオ(の要約)を思い出してほしい。それは「ある種の生物が生き残りやすいという意味ではランダムではなく選択的だが、通常の生息環境によりよく適応しているから生き残りやすいというわけではないような絶滅」というものだった。
要約の前半部分に「ある種の生物が生き残りやすいという意味ではランダムではなく選択的」とあるように、衝突の冬における絶滅は、明らかにランダムではなく選択的だった。生き残りやすかったのは、当然ながら、光合成を必要としない菌類や寒冷な気候に強い小動物といったものたちである。それにたいして恐竜はこの状況下ではもっとも不利な部類に属する生物だった。そして大事なのは要約の後半部分、すなわち「通常の生息環境によりよく適応しているから生き残りやすいというわけでないような」の部分である。「通常の生息環境」とは、もちろん太陽光のある環境のことだ。衝突の冬の一時期を除くほとんどすべての期間(何十億年)にわたって地球環境には太陽光はあって当然のものであり、多くの生物を育む源だった。恐竜たちもまた一億数千万年ものあいだ、そうした「環境によりよく適応し」てきたのである。そのようにして築き上げてきた生き方が、天体衝突という不運としかいいようのない事件によって突然、決して「生き残りやすいというわけでない」ということになってしまったのだ。まず天体の衝突という運の支配があり、そして衝突の冬でのサヴィヴァルゲームという遺伝子を競うゲームの支配がやってきた。天体衝突が運の支配する出来事であったのは、それが生物の能力や生態とはいっさい関係のない出来事だからだ。衝突の冬が遺伝子(能力)を競うゲームの支配下にあったのは、それが太陽光の遮断と寒冷化から相対的に影響を受けにくい特徴や生態をもつ生物だけを選択的に生き延びさせたからだ。このようにして、恐竜は理不尽な絶滅シナリオの犠牲となったのである。

このように、理不尽な絶滅は、弾幕の戦場のもとでの運の支配と遺伝子を競う公正なゲームの支配が組み合わされたシナリオである。そうだとすれば、このシナリオによって滅んだ恐竜は運も遺伝子もわるかったということになるのだろうか。一瞬そのように考えそうだが、じつはそうではない。理不尽な絶滅の犠牲者は、つまり恐竜は、むしろ二重に運がわるかったと言うべきである。遺伝子を競うゲームの土俵自体が、運によって入れ替えられてしまうということ、それがこのシナリオの要点だからだ。恐竜はまず、たまたま起きた天体衝突のときに、たまたま繁栄を迎えていたという点で、運がわるかった(たまたま繁栄していなければ被害は少なかったかもしれない)。さらにふたまわり目の不運が恐竜を襲う。それは、たまたまもたらされた衝突の冬が、たまたま自分にとって徹底的に不利な環境であったというものだ(たまたま相対的に有利な生物もいた)。彼らはそこで、これまで自分の影に隠れて生きてきたような小物たちが生き延びるのを横目で見ながら滅んでいったのである。理不尽な絶滅の犠牲者は、必ずこのようにして二重の不運に見舞われる。これを理不尽と呼ばずしてなんて呼ぼう?
このシナリオを理解する際のポイントは三つある。ひとつめは、生存のためのルールが変更されてしまうこと。衝突の冬では、太陽光の遮断と寒冷化によって、ルールの変更が急激かつ大規模に行われた。二つめは、そのようにしてもたらされた新しいルールの内容は、それまで効力をもってきたルールとは関係がないということ。つまり、それまで何億年ものあいだ培ってきたルールへの適応が、新しいルールのもとでは役に立たないということだ。衝突の冬で起きたルール変更は、有力な生物の多くが前提としてきた太陽光を遮断することで、彼らの能力と実績を白紙に戻すようなものだった。そして最後に、そのようにして設定された新しいルールは、それでもルールとして厳格に運用されるということ。衝突の冬における太陽光の遮断と寒冷化は、これまで文字どおりの日陰者であった、光合成を必要としない生物や寒冷な気候に強い小さな生物だけを、選択的に生き残らせたのである。

 

 

ここまでくれば、恐竜が第一のシナリオ(弾幕の戦場)でも第二のシナリオ(公正なゲーム)でもなく、第三のシナリオ(理不尽な絶滅)の犠牲になったということがわかると思う。
理不尽な絶滅は、弾幕の戦場とも公正なゲームとも明確に異なるが、両者の要素を共有してもいる。そこでは、弾幕の戦場で主役となる運と、公正なゲームで主役となる遺伝子(能力)が組み合わされているからだ。弾幕の戦場を支配するのは端的に運であり、存亡そのものが遺伝子(生物の特徴や能力)と関係なく非選択的に決まる。公正なゲームを支配するのは遺伝子であり、存亡はその生物の遺伝子が表現する特徴や能力に応じて一定の生存ルールのもとで選択的に決まる。しかし理不尽な絶滅では、生存ルールは運次第で決まるにもかかわらず(天体衝突は生物にとっては運の問題以外の何物でもない)、そのようにして決まったルールは生物の特徴や能力つまり遺伝子に応じて選択的に犠牲者を決定するのである(衝突の冬を生き延びられたのは特定の生物だけだった)。いわば、万人に公平なはずの運が不公平にもたらされるのであり、公正なはずのゲームが不公正にもたらされるのだ。
第三のシナリオが「理不尽な」絶滅と呼ばれる理由がここにある。理不尽な絶滅が理不尽であるのは、生物を絶滅に追いやる生存ルールが苛酷であるとか厳しいとかハードルが高いとかいうこと自体に存するのではない(弾幕の戦場をもたらす災害や公正なゲームにおける競争も苛酷なものにちがいない)。それが理不尽であるのは、従来の生存ルールと新たな生存ルールとのあいだに、また、これまで成し遂げてきた適応とこれから成し遂げなければならない適応とのあいだに、関係がないからなのである。それは苛酷なものである以前に、なにより不公平なのだ(しかる後に苛酷で厳しく高いハードルが絶滅生物を追い詰める)。これが、理不尽な絶滅シナリオが理不尽であるゆえんである。
ラウプが「理不尽な」を指すのに用いている“wanton”という言葉は、「気まぐれな」「淫らな」などを意味する英語である。Oxford English Dictionaryによれば、古い英語の「まちがって」を意味する“wan”と、「もたらす」を意味する“tee”の過去分詞“towen”が組み合わされた言葉とのこと。理不尽な絶滅シナリオでは、生存ルールが「まちがって」「もたらさ」れるということだ。上司から納期の短縮を命じられるとき、それは苛酷な要求であるかもしれないが、(それが可能なものであるかぎりは)理不尽な要求ではない。しかしもし、仕事といっさい関係なくビールを買ってこいとか所帯をもたなければ昇進させないなどと言われたらどうだろうか。それは苛酷な要求という以前に、理不尽な-「まちがって」「もたらさ」れた-要求だろう。
ちなみに、「変化するルールについてではなく、生物の絶対的な優劣について語れないのか。」という疑問がわくかもしれない。でもそれは考えても詮無い問題だ。いちばん格好いい生き物はなにかとか、いちばん強そうな生き物はなにかといった趣味的な観点でなら、楽しい話ができるだろう(私はそれぞれダイオウイカクマムシに一票を投じる)。でも、優劣というものはルールと相対的に決まるしかないのだから、絶対的な優劣について論じても意味がない。というか、それは実際には別の話-主観的な好悪にかんする主張-をしているだけなのである。