「“一億総白痴化”命名始末記 - 大宅壮一」日本大衆文化論アンソロジー  から

 

「“一億総白痴化命名始末記 - 大宅壮一」日本大衆文化論アンソロジー  から

刺激の“唯量主義”

ある生徒が、その教師にあだ名をつける。たまたま、そのあだ名が、その教師の人柄を端的に衝いていれば、アッという間に全校に広がる。すると、後年、その教師の本名は忘れてしまっても、あだ名だけは、誰も忘れない。あだ名だけが、その人になり代って通用する。これはどこの社会にもよくあることだ。
私が放送、ことにテレビを指して“一億総白痴化”と書いたのは、たしか去年の初め、東京新聞の紙上だったと思う。ハッキリ日付を覚えていない位、フト頭に浮んだ言葉であった。だがその“一億総白痴化”という言葉は“よろめき”と並んで、去年の二大流行語となった。
ラジオ・テレビの現状を論ずる人が、必ずといってよいほど、一回は、この言葉を引用するような始末である。あだ名は、あくまであだ名であって、その人のすべてではないのと同様、放送がすべて“白痴化”番組というわけではない。その意味では、放送関係者にあらぬ迷惑をかけた面もあったかもしれない。
しかし、いいだしたのは私であっても、これを流行[はや]らせたのは私の責任ではない。
その責任が、放送番組制作者にあるのか、それとも世にいう“投書族”“批評族”にあるのか、あるいは放送以外の活字マスコミの側にあるのか、それらの議論がいろいろあってもよいが、いずれにしても、世間が“一億総白痴化”という言葉に飛びつく、何らかの原因があったことだけは間違いない。

 

私が、はじめてこの言葉を使った直接の対象は「何でもやりまショー」という番組であった。それも、出演者が早慶戦のスタンドで慶応側の応援団席に入って、早稲田の旗を振り、それをカメラで撮ってテレビに使う、という騒ぎが起った。六大学野球連盟が、そのテレビ局の中継を禁止するという騒動にまでなった。これを指して言ったわけである。ごていねいに、観衆からつまみ出されるところまで映した。
ちょうど、その直前、「大東京祭り」という、なにかコジツケがましい行事に大金を投じた、文字通りのお祭りさわぎがあった。それともう一つ例の「文春祭り」で、文士が厚化粧して、役争いまでしている。自分たち同士、座興でやるのは勝手だが、大劇場を借り切って、高価な衣裳をつけ、高名なプロ役者のコーチを受けている。この三つを合せて、まさに天下の三大愚挙じゃないかと、いったわけである。
余談だが、現在でいえば、これに南極観測を加えて四大愚挙といいたいところだ。最近茅学術会議会長に逢ったとき「あんたは、はじめから、こんなに金かかるものと知っていたのか」と聞いたところ、「はじめは一億円の予算だった。私はじめ、学術会議のだれも、こんなにかかるとは思わなかった。知っていれば、だれも賛成しなかったろう」という返事だった。それが満場一致の決定で、フタをあけたら、現在までの国費だけで十八億円も使っている。いってみれば、ここにも「何でもやりまショー」の精神が現われているのだ。
新しいマスコミとして登場したばかりのテレビは、眼でみるという特性からも、当然まず、“興味”で人を釣ることを考えた。興味に訴えることがかならずしも悪いとはいえないが、はげしいダイアル争奪、視聴率競争は、そのまま、放っておけば、興味の質を考える暇がなく、もっぱら度の強さをきそうことになる。興味の度の強さ-刺激の強さをつき進めていくとゲーム、勝負のスリルとなり、プロレスが八百長であることを誰もが知っていながら、テレビの前が黒山になるといったことになる。
視覚の刺激の度=視る興味も、質を考えずに、度だけ追っていくと、人間のもっとも卑しい興味をつつく方向に傾いていく結果にもなる。人間は、たとえば街角で犬が交尾していれば立ち止って見たい気持を持っている。見終ったあとでは、バカバカしい、用事かあるのに犬の交尾なんか見て・・・とはいうが、火事があれば、また走っていく、というわけだ。
刺激が過剰になり、刺激の度をますます強くしなくてはいけない状態が続けば、その刺激のない平常の時間に、人はボンヤリしてしまう。それは痴呆化するということである。
テレビというメディアは、マスコミの中で、こういう人間の低い興味と接触する機能を、本質上もっとも多く持っているということだ。
いわゆる視聴率の競争が、それに拍車をかける。スポンサー・プロというものは、スポンサーの身になると霰弾[さんだん]で小鳥をうっているようなものである。
自分の商品の購買層と、提供している番組の愛好者とか、どんな比率でダブって呉れるのか、容易には判定しがたい。そこから来る焦りが、番組の対象を、むやみと量的に拡げたがる傾向となって、一層、番組の低俗化を促す作用をする。
こういう放送番組の“唯量主義”について、私は、放送関係者とスポンサーに注意を促す必要を感じたわけだ。放送の対象となる大衆の中にも、質の異なった層がいろいろあり、そこには、おのずから、スポンサーにたいする信頼感という宣伝の“質”の問題がでて来るはずなのだから。

レッテルは自分で歩く

とにかく、そういう動機から使った“一億総白痴化”ではあったが、それが一つのレッテルとして、ラジオ・テレビにつきまといながら、一年間という月日が経過した。流行った責任は、私にはないと前にいったが、それでもこのレッテルが、放送界に客観的に及ぼした影響が、どうであったかを考えてみる必要は、私にもあるだろう。
この言葉が、一つの逆作用、つまりマイナスの働きをした面があることは事実だ。
その第一は、官僚が、放送法改正とか、番組調査権の復活とか、言論機関になんらかの規制措置を取ろうという動きを示す上に、有力な暗示を与えているという点だ。マスコミは無責任だから、当事者に委せておけない、と彼らは考える。するとそこから飛躍して彼らは、自分が規制せねばならないと信じこむわけだ。
第二に放送の“教育化”という新現象が現われた。教育・教養番組を通じて“一億聡明化”を計ろうということだ。これもまたテレビの本性を忘れた意見だと私は思う。「教育テレビ」という看板は、チャンネル争奪戦の中でなんとか割当てを取るために、当局の考え方に便乗しようとして出てきた形跡がある。ところが、結局、免許は水増しされ、普通局もたくさんできたから、「教育」の看板を約束したところだけバカをみたわけだ。元来、教育テレビなどというのは、アメリカのように大学以下教育機関自身が財団化していて、それが放送局を持つ形をとる場合にはじめて考えられる。しかも本番のアメリカでさえ、私が行っている頃、すでにテレビなどによる教育の効果について疑問視する見解が有力になってきていた。いわゆる“ソフト教育”は真の教育ではない、努力して物事を掴む能力は付かない-というのである。テレビの“白痴化”も困るが、テレビの“教育化”もこれまた困りものである。

 

こういったマイナス面の危険もあるわけだが、とにかく“白痴化”というあだ名が、テレビの代名詞そのもののように流行するという事実そのものを、反省の材料としてくれた放送関係者もあったということもこれまた事実だ。視聴率というものの処理のしかたも変化して来たし、スポンサーも、番組の内容の高さで、質的な宣伝効果を狙うことを研究するようになって来ているのではないか。いわば霰弾をやたらに数多くうつのではなく、狙う鳥の群の状態によって、霰弾の効果率を考えるというわけだ。
もっとも放送関係者の中でも、私のいい方にたいして「頭からきめつけるだけで、現実性がない。具体的な向上の手がかりにならない」という批判もあるようだ。ことに大衆娯楽の機関としてのラジオ・テレビに実際に携わる場合、どこに、娯楽と“白痴化”との線を引くかということはなかなかむずかしい。
しかし娯楽ということについて、私は最近、少年・少女雑誌を調査してみて感じたことだが、子供の読物の世界のバランスが完全に崩れてしまっている。童話的な、情操を引き上げるような読物、知識欲を満たすような読物が一流雑誌からも、極度に追い出されていて、圧倒的に眼でみるもの-漫画のはんらんである。むかしわれわれも漫画を読みふけった。しかしそれは、いわば間食であり、授業のあとの遊戯の時間であった。いまは主食の代りにおやつだけ、授業ないの遊戯だけである。しかもそれが小学校の上級から中学向けのものまでそうなのだ。
つまり一億幼稚園化である。
娯楽は必要である。しかしバランスが崩れてしまっては、頭脳的栄養失調に陥いるだろう。要は娯楽の量と、娯楽の在り方の問題である。

 

 

大衆はマスコミに復讐する

 

 

要するに流行語-あだ名というものは、本質を衝いてはいるが、そのもののすべての側面をいいつくしているものでは、もちろんない。
ラジオ・テレビには、たとえば録音構成・フィルム構成のような、他のマスコミにないすぐれた分野がある。録音構成など、はじめは週刊誌のトップ記事を真似してできたもののようだが、最近は逆に、週刊誌や総合雑誌が、そこからヒントを得たり、再録したりしている。聴覚を活字で再現しようというわけだ。視聴覚マスコミが、量的優位だけでなく、質的に活字ジャーナリズムをリードする可能性を示す一面といえよう。“何でもやりまショー”ということは、また“みんながやりましょう”という側面を含んでいる。戦後、本当に大衆がマスコミに登場する形式が確立したのは、ラジオ・テレビだともいえる。はじめは“のど自慢”など娯楽面での視聴者参加だったが、それは次第に、評論の分野にも進出する。発言の習慣がついてくる。また発言の機会としてマスコミを利用することが、よい意味でも、悪い意味でも上手になって来た。いまや“一億総評論家”の時代である。
これは日本の民主主義の進歩、確立にとって、眼には立たない大変な前進であった。だがここにも、マイナスの面がかならず同時に現われるわけで、一種のセミ・プロがマスコミに目立つようになって来た。“素人という名”のプロであり、いわば素人淫売のようなものだ。見せかけは初々しいが、実は手練手管にたけている。
投書欄や、視聴者参加番組や、街頭録音などの場が、こういったセミ・プロに占められるようになると、それは大衆から見はなされる、マス・コミが大衆から復讐されるのである。
セミ・プロ評論家は、それだけでなく、最近の評論なるものが、やたらに細分化することからも生れてくる。相撲評論家、プロレス評論家などまだいい方で、カナダカップ評論家、卓球選手権評論家から味の評論家、美容体操評論家、ノイローゼ評論家、下着評論家といったわけで、番組の数だけだんだん評論家が生れてくる始末にもなる。これも素人を素人を評論家にしやすくする反面、評論そのものが、だんだん無意味なマンネリズムにおちいるおそれがあるわけだ。

私は、いつもあわただしく生活をしていて、テレビをいつも丹念にみているわけではない。前に私が、テレビで相撲をみるときは、仕切りの間は、子供たちにみさせておいて机に向っており、「立ったよ!」と聞くと急いで画面をみる・・・といって、高橋義孝から「そんな奴に相撲の改革を云々する資格があるか」と文句をつけられたことがある。
放送局の関係者の中には、私がテレビ番組をみもせじ、知りもしないのに、悪口だけいう、といっている向きもあるらしい。たしかに私は番組の細部にわたって、技術的な面など考えつつみることはしない。しかし元来、私は騒音の中でも仕事ができるたちなので、テレビやラジオを掛けっぱなしながら仕事をしている。それにインタビューなどで、いろんなタレントに逢っているので、誰がどんな番組で、どんなことをやっているのか、割合深く印象に残るわけだ。
むかし、もっぱら文芸批評をしていた頃、大宅は小説を読まないで批評している、と文壇からやられた。私はそれにたいして、当時の“枕”になるほど分厚い総合雑誌や文芸雑誌の小説を、すみからすみまで読んで批評するヤツはバカだ、と答えた。そうしたら、“すみからすみまで”を取ってしまって、大宅は「小説を読んで批評する奴はバカだ」といったという説が広まってしまったことがある。私はそれを、必ずしも訂正する気にならなかった。もともと私は、技術批評はできないし、やりたくもない。あくまで傾向批評である。“顕微鏡”批評でなくて、“双眼鏡”批評なのである。
その伝で、最後に、現在の日本のテレビ・ラジオを大ざっぱに採点してみよう。
数年前、世界をひと回りしたとき、各国のテレビを見て回ったが、いわゆる中南米などの三流国になると、実にひどいテレビ番組があった。音楽でも舞台でも、サワリのところあたりに来ると、ボツンと切って五分でも十分でも遠慮会釈なくコマーシャルをぶち込んで平気である。それにくらべたら、日本の民間放送は、ラジオで六年、テレビは三、四年で、ここまで来たのだから、少なくとも七十点以上は進呈してよいと思っている。
とにかく日本人は、カメラであれ、ジャズであれ、何でも採り入れてやっているうちに良いものを自分のものにする素質を持っているようだ。ある意味で健全な常識を持っているといえよう。テレビについても、過去の三、四年は、制作する局にとってはトレーニングの期間であり、同時に視聴者としても、スポンサーとしてもトレーニング期間であったわけだ。しかし、問題が一つある。今後、大量に新局がふえ、一方、神武景気の没落で、スポンサーの余裕も無くなってくる傾向が強いことだ。この場合、ふたたび、“唯量主義”の弱肉強食的せり合いが復活するおそれが多分にある。その行方を見定めるまでは、“一億総白痴化”発言の家元として、簡単にこの言葉を買い戻すわけにはいかないのである。