「勘定所首脳と改革政治(内5節抜書) - 水谷三公[みつひろ]」江戸の役人事情-『よしの冊子』の世界 ちくま新書 から

 

「勘定所首脳と改革政治(内5節抜書) - 水谷三公[みつひろ]」江戸の役人事情-『よしの冊子』の世界 ちくま新書 から

 

勘定所という役所

 

寛政元年正月、定信政府が目付および勘定奉行宛に一通の通達を出した。それによれば、「御目付と申候者、御政事之にて御作法第一」であり、他方「御勝手向預り候勘定奉行等」は勝手掛り目付と「両輪」の関係にある、だから「御勝手向と御政事向」きの協調こそ、政務の主眼だと通達は強調する(『憲法類集』)。
かみ砕いて言えば、目付は政治の基本方針にかかわり、綱紀粛正を推進する柱で、勘定所は財政を所管する実務運営の中心だということである。戦前、役所の双璧をなした大蔵・内務両省について、「大蔵は政策の中心、内務は政府の中心」というのが、官界の常識だったのを連想させる。もっとも、勘定奉行所は、江戸の官界なかではすば抜けた規模と権能を誇り、たんなる財務や税務にとどまらず、今日わたしたちが行政という言葉で連想する政府活動の大半がここで集中管理されていた。
たとえば、現代の外交活動や外務省の直接の起源は、幕末の外国奉行に遡るが、その外国奉行所幹部や主要職員には、目付とともに勘定所系職員が数多く起用された。江戸の最高裁であり、常設の政府諮問機関でもあった評定所は、通例、寺社奉行町奉行勘定奉行の三奉行で、時にこれに大目付、目付を加えて構成されたが、その実務を取り仕切ったのは評定所留役である。ところで、留役の正規身分は留役勘定とされ、広義の勘定所職員に列し、人事交流を含めて、評定所事務機構は勘定所の統制下にあった。また、寛政以降は、寺社奉行についてもほぼ同様の仕組みがとられるようになる。さらに、全国各地に散在する御料、つまり徳川家直轄領を支配する代官は、公式にも実務上も勘定奉行所に属し、ここから上がる収入が、将軍、大奥を含めた「内局」や、政府活動一般の財政基盤となった。また、公式には老中直属とされる遠国奉行の多くも、執務実態や実務担当職員人事などの実務面では、事実上勘定所統制下に置かれた。これ以外にも、蔵奉行、金奉行、漆奉行、金・銀・銅座などの数多くの役所、公的機関も勘定所の外局か外局同然だった。

遅くとも、寛政の改革から半世紀ほど後の天保十年(一八三九)以降、『会計便覧』と呼ばれる、いわば『大蔵職員録』が民間で刊行されるようになる。一般の政府職員録に当たる「武鑑」とは別に、勘定所のみを扱う詳細な職員録が年々発行されたこと自体、実務官庁としての勘定所の重要性を物語るが、これをもとに江戸在住の勘定系職員総数を計算したところ、湯飲み所の者と呼ばれる雑役担当や、金・銀・銅座などの現業部門の職員を除いて、延べ七百十人強、実数で六百七十人程度に達した。これに全国に散らばる代官とその配下の手付・手代などの地方職員を含めれば二千人にはなる。他方、町奉行所は南北合わせて与力五十人、同心三百人の三百五十人体制だから、比べて勘定所が巨大で複雑な官庁だったことがわかる。
「冊子」は勘定所について、町奉行などとちがい、「天下に拘ハり大役」であり、「他場所と違ひ御勘定所ナドハ又一体を呑込ぬでハ勤らぬ」役所だと言っている。勘定所は政策全般にかかわり、綿密であると同時に大局に通じていないと勤まらない役所である以上、改革を進めるうえで、町奉行所はバイパスできても、勘定所は、目付同様、政府の指揮下に抑え込み、使いこなさなくてはならない。勘定所をいかに統制し使いこなせるか、それが改革の正否を大きく左右する。

 

下級幕臣の希望

勘定所と目付は江戸官界の双璧だったわけだが、人事の仕組みは対照的だった。目付になるには筋目正しい旗本であることがほぼ絶対の条件で、下級旗本や御家人には閉ざされた別世界である。他方勘定所は、これら下級幕臣でも、頂点の勘定奉行まで上れる可能性のある人気官庁だというのが、江戸官界の常識だった。
たとえば何度か紹介した「翁草」は、「御勘定所の勤こそ、少しの働も際立て、立身も足早なれ・・・小身の面々も器量次第自由に御役を勤る故、御勘定の諸士一統に励みて、平勘定は組頭に成[なら]ん事を欲し、組頭は吟味役を望み、吟味役は奉行を羨み」、各自が出世競争に明け暮れる実力次第の世界だと説明している。
勘定所に勤めれば、下級御家人にも立身出世の道が開かれたのは、代官役所の手代、つまりは勘定所地方出先機関の下級職員の家に生まれた川路が、一代で勘定奉行になった例でも知られる。その川路が勘定奉行昇格を目前にしながら、奈良奉行に左遷された時期がある。その当時、奈良で一生下積み生活を送る現地の与力同心について、「御勘定所に置いたらは随分羽をのはすへしとおもふものあり。夫[それ]に而[て]も子々孫々われらか家来共に手をつきてくらす也」と手紙に書いている(「寧府紀事」)。つまり、地付きの下級職員でも、もし勘定所に入れば随分出世できる人材もいるのに、自分の家来のような者にまで頭を下げて代々暮らすのだと、川路は機会に恵まれない奈良の地付きに同情を寄せる。
寛政改革のさなか、定信に政治改革意見書を出した小普請の植崎九八郎の意見では、「小役人に至りては御勝手向[財政]並入用[予算会計]に拘り候者を世上一統尊候心得、武役の御番衆をば劣者と心得候」(「植崎九八郎上書」)という。武士の本来である武官・番方は軽蔑し、勘定所役人を重視するのが世間一般の風潮だというのである。出世のための売り込みに熱心だった植崎一流の誇張もあるが、平時の出世と実権が勘定所にあるという常識は大筋では正しい。「冊子」にも、目付と並んで、勘定所の人事や動向をめぐる多量の情報が並ぶのもその現れで、目付が上級旗本の出世を見渡す戦略的観察地点なら、勘定所は「青雲の志」ある下級旗本・御家人の観察点である。

 

政変と奉行所人事

 

天明六年(一七八六)に田沼は失脚し、天明七年七月に定信が筆頭老中に就任する。政変である。政変には主要ポストの変動がともない、改革粛清には処分者が出る。勘定所もむろん例外ではない。当初は単身敵地に落下傘降下した形で苦戦していた定信の政権基盤が固まり、改革が本格化する天明八年夏から冬までの間に、まず二人の勘定奉行が官界から姿を消す。その一人赤井豊前守は配下の勘定組頭土山宗次郎の不正に関与したとして、「お咎め寄合」に落とされ、家祿も半分に削られた。二人目の松本伊豆守もお咎め小普請・逼塞[ひつそく]処分を受けたのみならず、奉行に昇格して五百石に加増された家祿も削られ、元の百俵五人扶持に近い百五十石に逆戻りした。三人目の桑原伊予守は、さして能力もない代わり、勤務は清潔無難という評判が幸いしたのか、天明八年暮れまでは生き延びる。田沼時代からの奉行で、定信政権下でも引き続き活躍するただ一人の例外が、久世丹後守だが、この久世については改めて紹介する。
田沼時代に活躍した勘定所幹部のなかで、最も厳しい処分を受けたのは勘定組頭の土山で、職務上の不正のほか、遊女を身請けして妾にしたり、入レ子疑惑にかかわったかどで死罪となった。その土山に命じられて不正な米の買い付けを担当したとされる、勘定所末端職員、普請役の石田儀左衛門も、逃亡先で死亡した。自殺とも、他殺とも定まらない。土山の実弟で、養子になった長瀧〔滝〕四郎左衛門は、当時留役だったが、兄の入レ子工作に関与したとして、お咎め小普請に落とされ、逼塞五カ月の処分を受けた。
これ以外にも勘定所内外の関係者多数が引き回し獄門にはじまり追放、押し込めなどの処分を受けている。記録が少なく、処分理由や処分規模は不明確だが、田沼没落以降定信政権確立期の天明八年末までの期間に、勘定・支配勘定・普請役それぞれで、数十名が免職や召放[めしはなし](幕臣身分の剥奪)などに処せられたらしい(「翁草」・「天明大政録」など)。これ以外にも、左遷など人事異動も多く、「翁草」によれば、天明八年は、天災と凶作でゆれた前年までとは違い、自然界はほぼ順調な季節を送り迎えたが、官界は大騒動で、「人事の変易に於てハ百年来未曾有の年」になった。

この天明八年夏、勘定所職員は二百名をかなり割り込んだから、新規に五、六十人を採用してもまだ足りないくらいだという評判が「冊子」に登場する。これは勘定所本体の勘定と支配勘定だけでなく、評定所留役、元吟味役手付などを含めた定員との差だと思われるが、前年の天明七年暮れ、三十人採用したらしいという話が事実だとすれば、欠員規模は一時百名近い水準になっていた可能性がある。欠員のすべてが免職や左遷ではなかったにしても、定信政権から見た勘定所「不良職員」の淘汰が相当大規模だったこと、それも天明八年秋ごろまでに一段落した事情はうかがわれる。次に来るのは奉行以下の新任人事と綱紀粛正である。
天明八年暮れ、奉行の新しい顔触れが揃う。翌寛政元年発行の『大成武鑑』には「曲淵甲斐守景漸 ○公 千六百石 天明八年十一月ヨリ」を筆頭に、久世丹後守、柳生主膳正、根岸肥前守、久保田佐渡守の五人が並んでいる。
政変で姿を消した赤井と松本に代わって、柘植長門守と青山但馬守の二人が一時勘定奉行に抜擢されるが、勘定所のお荷物というのが官界の評判で、任期一、二年で、御三卿家の家老に出される。ショート・リリーフを務めたこの二人はともに名所巡り型である。さらに田沼時代からの生き残りだった桑原は、天明八年十一月、大目付に祭り上げられた。「冊子」には、これら一連の異動で、桑原、青山、柘植などの「役にたたずハミンナ出払」い、「古つハもの」が揃って、五奉行の顔触れに「言分ハない」という声も紹介されている。

筆頭の曲淵は、例の「犬を食え」で町奉行をしくじったとされる目付出身の勘定奉行で、その名所巡りはすでに紹介した。「武鑑」にある「○公」は、公事方掛り勘定奉行を示す符丁で、主に徳川家直轄領(御料)や関東圏にかかわる訴訟を担当し、同時に寺社奉行町奉行評定所一座を構成した。勘定所の業務のうち、臨時的庶務の一部も担当したが、行財政面での比重は次の勝手方掛りにくらべて見劣りする。それにしても、町奉行時代に失点のある曲淵が、なぜ天明八年冬、定信政権下の勘定奉行に返り咲きを認められたのか、「冊子」に直接の手がかりはない。想像にすぎないが、実務経験豊富で、田沼時代にも比較的清廉だった人物が払底していたことや、訴訟の公正・迅速な処理を求める政権の意向に沿う人選でもあったのだろうか。
もう一人の公事方、根岸肥前守守九郎左衛門は、定信の老中就任直前、天明七年七月一日に佐渡奉行から抜擢された。ただし職歴は、上級旗本で目付出身の曲淵とは対照的で、二十八年前の宝暦十一年(一七六一)、百五十俵の勘定を振り出しに、田沼全盛期を勘定所系の職場一筋に昇進してきた生え抜きである。奉行就任当初は勝手掛りだったが、次に紹介する柳生が町奉行から勘定奉行に着任するのと入れ替わるように公事方に回された。
勝手掛りから公事方への「左遷」について、炎上した京都御所再建業務を担当した際の不手際や、田沼時代の収賄疑惑を指摘する声もあるが、誰かが定信に誹謗中傷を吹き込んだためらしいと本人は考えていると「冊子」は伝える。真相はわからないが、隠密横行の世だから、謀略に足をすくわれるというのも無理のない想像である。根岸の出世が田沼の全盛期と重なっていることや、勘定奉行就任時期からみて、定信政権本流とは距離があったらしい。行財政が本来の畑だと自負していたが、訴訟指揮にも手腕を見せ、公事人、つまり訴訟関係者の評判は上々だったという。勘定奉行時代は公事掛りで終始し、寛政十年に町奉行に転出する。そこで「十人殺した」話は前章で紹介した。
「武鑑」で曲淵の次に来るのが、「久世丹後守広民 ○カ 三千石 天明四年三月ヨリ」である。「○カ」は勝手掛りを示す。勝手掛りの老中、若年寄、目付と直結し、日常政務の中枢をなしている事情はすでに説明した。久世の役人生活は、火事場見回りという、出費はかさむがこれといった役得もない職から始まっている。家祿の高い上級旗本の多くが最初に任命されるポストの一つである。そこをそつなくこなして、次には、これまた上級高祿旗本の定番コースの一つ、使番を経て小普請支配になり、さらに浦賀奉行に出た。浦賀で二年ほど勤めた後、安永四年(一七七五)暮れに長崎奉行に抜擢され、勘定奉行として中央に戻るまで、ほぼ十年在任している。ちなみに、長崎奉行の前任者は、勘定奉行として同僚になる桑原で、桑原は目付から直接長崎奉行になった栄達組である。

久世のほかに、勝手方には柳生主膳正と久保田佐渡守がいる。柳生は、書院番士から小納戸に転じ、さらに小姓を勤めるなど奥勤の経験が長かった。そのせいで、勘定奉行時代には、お城を我が家同然に思い、居残りも苦にしないのだろういう嫌みも聞かれた。将軍家剣術指南で知られた家柄で、主膳も将軍世子家基の剣術指南を兼ねた時期もある。西丸目付に転出し、さらに本丸目付に移った後、小普請奉行として政府要職の階段を登り、定信政権発足直後の天明七年九月、町奉行に昇格した。「奥」から目付に出た後出世した名所巡り型の一人だが、町奉行は一年ほど勤めただけで、勘定奉行に移ってくる。
勘定奉行(とくに公事方)から町奉行に「栄転」するのが江戸ルールで、その逆は極めてめずらしい。勘定奉行上座、町奉行の次という高い席次も、町奉行からの異動が勘案されたのだろう。ただ、町奉行としての評判は「冊子」によれば芳しくない。杓子定規で当意即妙の才に欠けるという。大衆受けしにくいタイプだったようだが、そのぶん綿密だから勘定奉行のほうがまだましだなどとも言われた。勘定奉行就任後、炎上した京都御所再建を担当するが、ここでも評判は好転せず、なぜあんなのがという声が続いている。奥出に勘定奉行は無理だという声が同じ頃「冊子」に登場する。あるいは柳生のことも暗に意味するのかもしれない。しかし、結果的には文化十四年(一八一七)まで三十年近く勘定奉行を勤め、勘定奉行の最長不倒を記録する。役人人生は分からない。
もう一人の勝手掛りである久保田は、根岸同様勘定所生え抜きで、やはり勘定からスタートし、代官を経て、安永六年(一七七七)に勘定吟味役に進んでいる。佐渡奉行を経て勘定奉行に抜擢されたのも根岸と同じである。善良篤実な人柄は衆目の一致するところだったらしく、小役人上がりは横柄になりやすいが、久保田にはそれがちっともない、「良吏の第一」だとか、政府実務中枢の城中たまり場である「芙蓉之間詰」の役人のなかでも、人格は一番などと、「冊子」も褒める。勘定奉行就任は天明八年五月、寛政四年閏四月まで四年在職したが、久世や柳生に比べて「冊子」に噂や評判が出ることは少ない。性格がよく、もめごとや過失が少ない反面、荒業には不向きだという噂もある。
『寛修譜』を信じれば、延享元年(一七四四)に役人生活を始めて約半世紀、勘定奉行就任当時すでに七十歳になっていたから、残りの役人生活を「大過無く」送れれば十分という気もあったかもしれない。もっとも、六十歳を越して妾に子供を産ませたと評判の久保田だから、断言はしかねる。ちなみに、残り四人の寛政元年現在の官年は、柳生四十五歳、根岸五十三歳、久世五十七歳、曲淵六十一歳である。最年少の柳生については、二年前の町奉行就任時に、若すぎるのを苦にして、老けて見せようと腰を曲げて出勤したという噂も流れた。
なお、勘定奉行五人制について言えば、たとえば久世が勘定奉行に就任した天明四年を含めて、田沼時代後期にあたる天明元年から六年までは、四人の奉行が二人ずつに分れる体制で、これが普通である。勝手掛りが三人に増強されたのは、定信政権が緊縮財政と綱紀粛正を重視したことのほか、たまたま炎上した京都御所再建事業を現地で取り仕切る専任勘定奉行が必要とされたという偶然もある。柳生の勝手掛り起用について、小普請奉行時代、前将軍の葬礼建築や御霊屋修造を担当し、実績を残したことが、京都御所再建にも役立つと評価されたためだともいう。適材適所の人事だとも、運も実力のうちだとも言える。
以上の簡単な略歴紹介から、政権変動一年半で、勘定奉行の顔触れがほぼ一新され、寛政元年の五人の勘定奉行のうち三人が勝手方、残り二人が公事だったこと、出自からみれば、三人は奥勤や目付・使番などを経た上級旗本の名所巡り型で、町奉行と同じタイプだったこと、勘定所生え抜きは二人で、公事方、勝手掛りに一人ずついたことがわかる。田沼時代末期の天明五年には、生え抜きの奉行は松本伊豆守一人で、残り三人は、奥出や目付経由の名所巡り型だったこと、さらに江戸後期つまり延享元年(一七四四)から天保十四年(一八四三)までの一世紀間に勘定奉行に就任した八十人中、勘定所生え抜きは一割程度にすぎなかったことなどを考えれば、定信政権は勘定所生え抜きを重視したという見方もできる。事実そうだったかをもう少し考えるためにも、奉行とともに勘定所首脳を構成する勘定吟味役について触れておく。

(中略)

 

勘定所統制の「成功」

話は先に進みすぎた。佐久間の台頭によって、定信政権は柳生、佐久間という強力なくさびを勘定所に打ち込むことができた。勘定所には無縁で、たぶん勘定所の一部で、「素人利〔理〕屈」ばかり言うと不評の柳生が、勘定所にあって改革路線の最も強力で忠実な推進者、「ミスター行革」になったわけである。これでは、田沼時代からただ一人、奉行に生き残った久世丹後守にしても、勘定所生え抜き奉行の久保田や根岸にしても、さらには勘定所の一般職員にしても、複雑な気分に襲われることもあったろう。
たとえば、定信の信任を誇って意気上がる柳生に久世が押されがちだったらしい事情を伝える噂は「冊子」にも多い。寛政元年夏頃の噂では、勘定所の採用人事について、「久世初[はじめ]一統ニ不承知」だったが、西下ご贔屓[ひいき]の柳生は、同僚の反対を強引に押し切ったと伝える。また翌年夏ごろには、勘定所出先機関の一つである材木石奉行の人選について、久世、久保田らが相談の上で候補に推した二人の支配勘定は却下され、「柳生一存にて」上申した別の支配勘定の任命が決まった。そのため、「柳生勢ひ至てつよく御座候ニ付、久世の徒ハ甚恐れ申候よしのさた」という噂も流れる。さらに数ヵ月後には、年貢米保管の現場業務を担当する蔵手代を代官所職員に転出させる提案について、久世は握りつぶしたのに、柳生が実現させたなどという観測も聞かれた。勘定所職員の採用や異動・昇進などの人事を軸に、勘定所内にも派閥や系列化が起きていたこと、さらに久世の系列は柳生の勢力に押されているらしい事情が推測される。つまるところ、西下と三位一体の柳生と佐久間が勘定所を席捲したと見てよいだろう。
ただ、定信がこれで十分満足できたかとなると疑問は残る。柳生を目立った例外に、根岸、久保田、佐久間らはいずれも、「仇敵」田沼の時代に勘定所で活躍し、あるいは首脳部に達した役人である。他方で、田沼没落後に勘定所外部の奥や番方から起用された奉行や吟味役の多くは、「くず」呼ばわりされたり、泣かず飛ばずに終わっている。
一般に、政府実務の経験が少ない改革政権首脳の場合、人材の選抜登用に際して「清廉・篤実」を重視するか、「熟練・才略」に比重をかけるか、とりわけ難しい判断を迫られやすい。むろん、清潔で有能な人材がいればそれに越したことはないし、くまなく捜せばそれに近い人材は幕臣にも少なくなかったにちがいない。ただ、その発掘には手間や暇がかかるし、任命しても実務に習熟するまでさらに時間が必要になる。また、いくら「寛政維新」非常時の「御見出」とはいっても、抜擢の範囲には身分格式など、前例による制約の大きい事情は、小田切土佐守の町奉行抜擢について見たとおりである。実際の人事となれば、選択範囲は狭く、そのなかで選ぶなら篤実か才略のいずれに比重を置かねばならないのが普通である。
これは、他の職場にも共通した事情だが、勘定所の場合、清廉・篤実だけではこなせず、職務の習熟と職場知識が、つまり江戸で言う「吏才」、今日なら官僚適性がとりわけ強く求められたのは、官界が一致して認めるところだった。前章で紹介したように、篤実だが才略のあるほうでない目付神保の小普請奉行転出をめぐって、小納戸出身に先を越されて、残りの目付が悔しがる一幕があった。その際、勘定奉行なら話は別で、たとえ佐久間が勘定奉行になり、神保がその後塵を拝したとしても異存はないと目付も認めたと伝えられる。このような噂が流れるには、定信が佐久間を高く評価していたことが大きいのだろうが、佐久間が勘定奉行になってもやむをえないと目付も認めるのは、勘定や勝手向きには習熟と吏才がとくに必要とされるという常識が、江戸官界に根強かったことの現れでもある。

 

久世の生き残り

共通の事情が、田沼時代からの生き残りである久世の、勝手掛り勘定奉行留任にも指摘できる。定信は、「成り上がり」を重用した田沼とは違って、筋目正しい譜代を重視したという説明もあるし、譜代重視を定信政権の特徴にあげる研究者も少なくない。久世が出自・家筋・職歴から見て、折り目正しい上級旗本だったのは明らかである。しかし、勘定奉行だけとっても、久保田や根岸は「成り上がり」で、その人事を譜代重視とは呼びにくい。青山や柘植のような折り目正しい譜代旗本が、短期間で勘定奉行を追われている事情もすでに紹介した。それに人事を隠密情報・風聞で動かすと言われる定信の手法は、個人の資質・能力の重視に傾き、家格・家筋を中心とする「譜代主義」とは、正面から対立するわけではないにしても、十分に整合的とも言えない。
久世の「生き残り」を説明しそうな事情の一つは、久世個人の資質や執務ぶりである。役人としての久世の評判が高く、人気があったらしい事情は、「冊子」に載せられた様々な噂が雄弁である。たとえば、名門旗本のお殿様ぶりや人柄のよさについて、「うぶの三千石の人」だから、同じように倹約、つまり予算や経費の節減を論じても、久保田や根岸のように「いぢつたい事はない」という。自説を強硬に主張するよりも、周囲の変化に合わせ、下の者にも気配りを絶やさず、円滑な執務運営を心懸ける、「算」つまり計数にも明るく、「御役人で一番」だ、「芙蓉の間ニてハ久世丹後と村山信濃が一番」だといった評価も聞かれた。また、武芸にも熱心で、通勤にも馬を使っていた。ある時落馬して起居も不自由になり、そろそろ駕籠にしたらとの声も出たが、それでも馬通勤は続けたという。このあたりは、文武奨励の定信の好みにも合致する。
他方で、久世とともに「芙蓉の間ニて」一番と言われた村山信濃とは、勘定奉行から転出して当時町奉行の職にあった村山信濃守のことで、「冊子」でみるかぎり、町奉行として評判が高いわけではなかった(ただし、町奉行時代の柳生もそうだが、前任町奉行で在任中に惜しまれながら急死した石河土佐守の評判が高すぎたという「不運」もある)。しかも、久世、村山はともに田沼時代からの生き残りである。定信に不満をもちながらも、面従腹背を強いられる官界の一部が、あてつけに二人をほめあげた疑いも残る。だとすると、その久世の留任と活躍は、定信政権にとって問題含みではなかったろうか。

(ここまでに致します。)