「遺伝子はダメなあなたを愛してる(内生態6篇抜書) - 福岡伸一」遺伝子はダメなあなたを愛してる 朝日文庫 から

 

「遺伝子はダメなあなたを愛してる(内生態6篇抜書) - 福岡伸一」遺伝子はダメなあなたを愛してる 朝日文庫 から

 

○わが子はピーマンが苦手。大人になれば食べ物の好き嫌いはなくなりますか?

 

私の好きな作家の一人にカズオ・イシグロさんがいます。1954年長崎生まれ。五歳のとき、お父さんの仕事の都合で英国に渡り、以来、かの地で育ちました。そして英語で小説を書く世界的な作家となったのです。彼の作風は、リーダブルでプレーンな短文を丁寧に積み重ね、細やかな記憶のひだをたどり、人生にとって大切な何かを少しずつ探り当てていくというものです。私がもっともすばらしいと感じた作品は『わたしを離さないで』です。ヘールシャムという特殊な施設で育てられた子供たちは行く手に待ち受ける過酷な運命を知らぬまま、幸福な日々を過ごします。そして薄い皮を剥いでいくように少しずつ自分たちの現実を知り、それを受け入れていくようになります。

この作品は映画化され、日本では2011年3月に公開されました。観た方も多いのではないでしょうか。映画もすばらしいです。透明で静かな悲しみが、全編にわたって薄いブルーのフィルターのように重なっています。公開前の1月、そのイシグロさんが映画のプロモーションを兼ねて来日しました。幸運にも少しだけお話をする機会がありました。彼は端正な英語を話します。日本語も少しはわかるそうですが。
イシグロさんの小説のテーマのひとつは「大人になること」ではないかなと思います。大人になることは有限性に気づくことです。子供のころ、無限に広がっていたはずの可能性が狭まり、夢がひとつずつ消え、くっきり見えていた世界の輪郭もぼんやりとしか見えません。視力や体力が衰え、想像力でさえ弱くなっていきます。しかしそんな時の流れのなかにあって、決して私から奪い去ることができないものがひとつだけあります。イシグロさんはガーシュインの曲を教えてくれました。「They Can't Take That Away From Me」。彼らは決してそれを私から持ち去ることができない。彼らとは時間のことでしょう。
では、持ち去ることのできない「that」とは。それは端的に言えば、私自身の記憶です。大人になって、あらゆるものが損なわれて色あせたとしても、私のあの鮮明な記憶だけは確かなものとして私の中にある。それは必ずしも美しいものではありません。苦く、切ないものでもあるでしょう。しかしそれは私とともにあり、私はその記憶と和解したり、あるいは折り合いをつけるようになる。そのような記憶との関係性が大人になるということなのかもしれません。
大人になることは、しかしながら、悲しいことばかりではありません。大人になってよかったと思えることのひとつは、子供のころ、大嫌いだった食べ物がいつの間にか食べられるようになっているはかりか、好きになってさえいるという事実です。私も小さいころ、ピーマンが苦手でした。プラスチックみたいで、苦くて。それが今ではちょっと焼いて醤油でもつけると、とてもおいしくいただけるのです。お酒にも合う。

味覚というのもひょっとすると記憶なのかもしれません。記憶は重層化され、変容しつつ、それがたとえ苦いものであったとしてもいつしか私と和解している・・・そんな風に思っていたら意外な事実を知らされました。ピーマンの苦みは、ポリフェノールと呼ばれる植物性の化学物質によります。そしてその含有量は品種改良で低減できるのです。いまスーパーで売られているピーマンは、京波やちぐさと呼ばれる品種で、食べやすいよう肉薄になり、苦み成分の含有量もずっと少なくなっているそうです。なんだ、そうなのか、記憶の変容を美化しすぎてはいけませんね。

 

○妻は娘を甘やかしすぎ。わが子を過保護に育てたくないのですが。

 

私たち生物学者は、実験動物として白ネズミを飼育しています。大きめの系統はラット、小さめの系統はマウスです。ケージと呼ばれる四角い透明なプラスチックの箱で飼育します。よく観察すると、ネズミたちはたいへんきれい好きてあることがわかります。糞はできるだけ隅のほうでして、場合によっては自分の前脚でつかんで、後ろ脚で立ち上がって、ケージの蓋の金網のスキマから外へ放り出してしまいます。

ネズミたちは夜行性なので、動物飼育室が消灯して暗くなるとがぜん元気に動き回ります。夜中、そっと扉を開けて中をうかがうと、闇の中、あちらこちらでケージの中を走り回り、餌をかじるわさわさした騒がしい気配で部屋が満たされています。
妊娠がわかると個室に入れます。新聞紙を入れてやるとあっという間に細く小さく引き裂いて、鳥に似た「巣」を作ります。その中で子供を生むのです。ハツカネズミの名の通り、妊娠期間はわずか20日あまり。一度に数匹から十数匹の子供を産みます。一度に排卵が複数個おこるので、そこに別々の精子が受精します。つまり同腹で生まれるのはクローン(遺伝子が同一)ではなく、兄弟姉妹ということになります。
生まればかりのネズミの赤ちゃんはまだ毛がなく、赤い柔らかな豆のように見えます。その豆たちが必死に母親の乳首に吸いついています。授乳期間はひと月ほど。徐々に毛が生えてきてやがて自分で餌を食べるようになります。私たちはこの時点で母親と離し、性別ごとに分け、個体番号を付けて、それぞれの飼育ケージに移しかえます。
興味深いのは母親の子育てにも個性があるということです。一心に赤ちゃんをなめたり、なでたりして一生懸命ケアする母ネズミと、逆に、赤ちゃんにあまり関心を示さず、ほったらかしの母ネズミがいるのです。
面白い研究があります。よくケアされて育った子ネズミはどちらかといえば落ち着いて、リラックスした大人に育ち、あまりケアされずに育ったネズミは警戒的で、いらいらした大人に育つ傾向がみられるというのです。
ストレスにさらされると副腎からコルチゾールというホルモンが血中に放出されます。コルチゾールはエネルギーの燃焼を促進し、闘争したり逃走したする行動を助けます。たくさん放出されるとその一部は脳の海馬に到達し、そこでグルココチルコイドレセプター(GR)という分子に結合し、信号を発します。この信号は視床下部、脳下垂体を経て、別の信号に変換され、それが副腎に働いて、コルチゾールの放出を抑制します。つまりフィードバックがかかるしくみです。

さて、子育ての仕方とGRのレベルには、相関があるのです。生後まもなく手厚いケアを受けた子ネズミではGR遺伝子のボリュームつまみの音量が大きく設定されていることがわかりました。
GRのレベルが高いと鋭敏にコルチゾールを検出できるので、すばやくフィードバックがかかり、ストレス反応を抑えます。それゆえ子供は温厚に育ちます。子育ても余裕をもって行うことでしょう。
つまり遺伝子そのものの有無ではなく、遺伝子の発現の仕方が、行動によって世代を超えて伝達されうるのです。これはエピジェノミックス(遺伝子そのものではなく、遺伝子を取り巻くしくみの変化。「エピ」とは外側の意)と呼ばれ、生物学研究の新しいトレンドになっているのです。むろんネズミの成果がすぐにヒトに当てはまるとは限りませんが。

 

○メールに携帯、ソーシャルメディア。情報化社会は便利だけどなぜか疲れます。

前項では、ボルボックスのことを書きました。水棲のミクロ生物で、多数の細胞が集まって球形の群体を形成しています。しかし単なる寄り合い所帯ではありません。光に向かってころがるように泳ぐなど、群体全体として一定の合目的行動がとれるのです。これは細胞と細胞のあいだにきちんと連携があり、チームプレイができるということです。実際顕微鏡でボルボックスの様子を詳しく見ると、細胞間に細い糸のような連絡網が張り巡らされていることがわかります。ここを通じて情報のやりとりをしているわけです。
私たちヒトは約60兆個もの細胞から成り立っています。もとはといえば、たった1個の受精卵細胞が分裂してできたものです。ここでも重要なのが細胞と細胞の連携です。
連携の方法はいろいろです。ボルボックスのように、直接、細胞と細胞のあいだに連絡通路が形成される場合もあります。しかし多くの場合、個々の細胞は細胞膜でおおわれていて、直接、他の細胞と連結していません。そのかわり、細胞と細胞のあいだをつなぐ情報伝達物質というものがあるのです。特定の細胞が、刺激に応じて、情報伝達物質を放出します。すると情報伝達物質は細胞間を拡散し、他の細胞に届きます。場合によっては、血液中を巡って、離れた場所の細胞に到着します。細胞の表面にはレセプターというアンテナがあり、それによって特定の情報伝達物質をキャッチします。
情報伝達物質はさまざまなところで活躍します。五感の刺激に応じて、それを伝えます。あるいは食べ物を食べて血糖値が上がるとそれに応じて膵臓から情報伝達物質が放出されます。インスリンです。インスリンは血液を巡って、他の細胞(とくに脂肪細胞)に「糖がたくさん来たから、吸収して備蓄しなさい」という情報を送ります。
神経の伝達もそうです。神経細胞は身体に張り巡らされた送電線のようなものですが、実は、ひとつひとつの神経細胞はユニットとして独立しています。その継ぎ目にあたるところはシナプスと呼ばれますが、神経細胞神経細胞のあいだにわずかなスキマがあります。そこで情報伝達物質のやりとりを行って神経間で情報を受け渡ししているのです。
さて、私たちは一般に「情報」と聞くと、インターネット内に蓄積されている記録やデータのようなものを思い浮かべます。が、生命にとっての情報はちょっと違います。生命にとっての情報は「現れてすぐに消える」ことがもっとも重要なのです。

インスリンは血液中に放出されて情報を伝えますが、すみやかに代謝されて消えていきます。シナプス間の情報伝達にはたとえばセロトニンという物質が使われますが、セロトニンもすぐに分解されたり、吸収されたりして、シナプスから消去されます。血圧を低下させたり、血を固めたり、筋肉を収縮させたりするのに重要な役割を果たす情報伝達物質としてプロスタグランジンというものがありますが、これらも秒単位、分単位で消滅してしまうほど短寿命です。
なぜ消えることが大切なのでしょうか。それは生命にとっては変化そのものが情報であり、変化の幅(差分)こそが、次の反応を引き起こす手がかりとなりうるものだからです。そう考えてみるとなぜ私たちが今日、いわゆる「情報」に振り回されてしまうのかがわかります。ネットやメールの言葉はいつまでも消えません。トゲとなってずっと残ります。つまり私たちが作り出した人工の情報は生命的ではないのです。

 

○もっとも役に立つ生物を挙げるとしたら何ですか?

線虫という生物をご存じでしょうか。ムシと名がつくものの昆虫ではありません。体長1ミリ程度。透明で、細長く、体をくねくねさせて進みますが、ミミズのような節があるわけでもありません。分類学的には寄生虫の蟯虫[ぎようちゆう]に近い生物ですが、多くは地中で自活して生きています。エサは土壌中の微生物です。
実は、この線虫、生物学にたいへん大きな寄与を果たしました。最初の生命体は約38億年ほど前に発生したと考えられています。そのとき生物は単細胞生物でした。そのあと28億年ほどの膨大な時間をかけて生物はゆっくり進化を遂げていきますが、この間、生物はずっと単細胞のままでした。

ところが今から約10億年ほど前、生命の進化に大きなジャンプが起こりました。それゆえに今日、私たちヒトも存在するのです。
それは生命が多細胞化したということでした。それまで単細胞生物は分裂すると二つに分かれて、はいさようなら、とそれぞれ別々の道を歩みました。
ところが、細胞は分裂してもくっついたままでいることを選んだのです。それだけではありません。細胞は増殖するにつれ、2、4、8、16、32と数が増えます。そのまま集合しているだけでは単細胞生物が群体を形成しているにすぎません。
多細胞生物では、ここに細胞の「分化」が起こりました。つまり専門化と分業です。外側の細胞は守備と栄養素の吸収を、内側の細胞は代謝やエネルギー生産を担います。
現在、私たちのからだはこのような分化によって皮膚の細胞、消化管の細胞、筋肉の細胞、内蔵の細胞というように、それぞれの細胞が役割を分担しています。これらの細胞は、もともとひとつの細胞が分裂してできたものなので、すべて同じ遺伝子のセットを持っています。異なる仕事をしているのは、どの遺伝子をオンにし、どの遺伝子をオフにするのかが異なっているからです。しかも、それをうまく分担できているのは、細胞がちゃんと話し合っているということを意味します。
こんなことがどうして可能となったのでしょうか。それを解く鍵が線虫なのです。私たちヒトは、約60兆個もの細胞からできている多細胞生物です。これはあまりにも多すぎ、複雑すぎます。かつて細胞分化の研究は、ウニやイモリの卵を使っていましたが、それでも複雑でした。

もっと細胞の数が少ない多細胞生物はいないものだろうか。1960年代の終わりごろ、生物学の将来を見すえていたシドニー・ブレナーという人が、研究のための材料探しを始めました。そして行き着いたのが、この線虫でした。飼育は簡単です。口も消化管も肛門もあります。筋肉細胞も神経細胞もあります。匂いをたよりに餌を探せますし、棒でつつくと反対方向に逃げます。細胞の数は全部で959個。一個の細胞がほんの10回ほど分裂すれば完成し、しかもそれぞれ分化した細胞になっているのです。
多細胞生物のもっとも重要な特性は、分化の結果、生殖専門の細胞、つまり精子卵子ができるということです。線虫には、それらがちゃんとあります。
ブレナーとその仲間たちは、線虫を丹念に観察し、細胞と細胞がコミュニケーションをしながら分化していく正確な系譜図を作りました。
ブレナーさんとお会いしてお話ししたことがありますが、小柄で気さくなおじさんでした。今日、彼の仕事は、生物学史上、もっとも重要な達成のひとつに数えられています。

 

○「断捨離ブーム」ですが、私はモノを捨てるのが苦手です。「片付けられない女」はダメですか?

 

断捨離、とは素敵な響きの言葉ですね。私たちはついついモノをため込んでしまいます。私が捨てられないものの代表は本です。自分で買った本。もらった本。自分で書いた本。読んで感動した本はもちろんのこと、読めずにそのままになっている本もいつかちゃんと読もうと思うとつい、つんどくになってしまいます。そして読んで損したと思うような本でさえなかなか手放せません。このような執着から解放されて、一切合財、よけいなものを断捨離できたらどんなに気持ちがよいことでしょう、しかし、いざ処分しようとするとこれまた捨てるにしろ、売るにしろエネルギーがいります。

そうです。モノを捨てることは、かなりのエネルギーを必要とする営みなのです。このあたりまえの事実に生物学者が気がついたのは実はごく最近のことなのです。
DNAからRNARNAからタンパク質が作られる機構はすべての生物に共通で、たった一通りのやり方しかありませんでした。
ところがです。最近になってわかってきたことは、作ったものを捨てることのほうこそ、生物は一生懸命行っているのだということでした。作る方法は一通りでしたが、捨てる方法は何通りもあり(その全貌はまだ明らかではありませんが、たぶん10通りくらいはあるでしょう)、多大なエネルギーを使って、生物は(より正確にいえば細胞は)せっかく作ったものを壊し、捨て続けているのです。
しかもです。壊れて使えなくなったものを捨てているだけではないのです。まだまだ使えるもの、新品同様のものでも、細胞の内部では、情け容赦なく次々と壊され、捨て去られています。
細胞の内部にはたくさんのタンパク質があります。タンパク質に小さな荷札が付けられると(これをユビキチンといいます)、そのタンパクはプロテアソームという井戸に放り込まれて粉々に解体されてしまいます。どんなタンパク質にユビキチンが付くか調べてみると、作られてからたった数十秒のできたてほやほやのタンパク質までもが壊されていくのです。
あるいはオートファジーと呼ばれるしくみもあります。これは細胞内の粗大ゴミの処理装置です。粗大ゴミを見つけると、そのまわりを取り囲んで風船のような膜で包んでしまいます。その中に消化酵素をどっと送り込んで、たちまち分解してしまいます。しかしオートファジーを詳しく調べてみると、分解されるのは必ずしも不用品ではなく、まだまだ使える有用品でも、あるいは新品でも壊されてしまうのです。
これらの分解には多大なるエネルギーが消費されます。
なぜ生命はこんなにも一生懸命、ものを壊し続け、捨て去っているのでしょうか。実はこれこそが生命現象を支え続け、何億年も永続させている秘訣だったのです。私たちの宇宙はほっておくとすべてのものが乱雑に、無秩序ななる方向へ進みます。整理整頓しておいた机の上はすぐに書類の山となり、金属は錆び、建造物は朽ち、お湯はぬるくなり、熱烈な恋愛は冷めます。エントロピー増大の法則です。生命現象もまたこの大原則に反することはできません。しかし崩壊を先延ばしする方法を見つけたのです。それが壊される前に、自ら壊し、そしてまた作ることでした。

ですから、たとえあなたご自身が片づけられない女であったとしても、私たち生命体はすべて、たえまなく、やすむことなく、ミクロなレベルで断捨離をし続けているのです。それが生きるということです。ご安心ください。

 

○「かわいがっていたハムスターが大往生し、ペットロスです。人間では老境といっても、短い命が不憫です。

 

皆さんはマウスの実物をご覧になったことがありますか。いわゆるハツカネズミのことです。研究室で飼育されているマウスの毛の色は白色、褐色、黒色など、体長は7、8センチほど。小さくてつぶらな目をしていてとてもかわいいです。そっと手にのせてみるとその軽さに驚かされます。大人でも40グラムくらいしかありません。鶏卵よりも軽い。そしてマウスの心臓が早鐘のように拍動しているのを感じることができます。1分あたりの心拍数は平常時で300回くらい、興奮時には700回近くに達します。呼吸数も多く、1分間に60~200回くらいも呼吸しています。平常時のヒトでは、呼吸数17~18回/分、心拍数60~70回/分くらいなので、マウスたちは、非常に速い速度でハアハア、ドキドキしていることになります。まるで何かに追われて、生き急いでいるかのようです。

一般に小動物は小さければ小さいほど、呼吸数、心拍数が多いのです。その理由は次のように説明することができます。小動物は小さく見えますが、単位体重あたりの体表面積が大きいのです。人間の場合、体重50キロ、身長160センチのヒトで、体表面積はだいたい1・5平方メートル。およそ畳1枚弱です(ネットで検索すると、体重、身長から体表面積を計算してくれるサイトが多数見つかります)。体重1グラムあたりに直すと、約0.3平方センチメートル/グラム。対するマウスは、体重はわずか40グラムですが、身体が直径7センチの球体だと考えると、その表面積は、約150平方センチ、単位体重あたりで考えると、約3・8平方センチ/グラムとなり、ヒトの10倍以上となります。
体重あたりの体表面積が大きいことは、それだけ細胞の生産する熱が外へ逃げやすくなってしまうということを意味します。つまり、体温を維持するために、より多くの熱の生産が必要になるということです。熱の生産のしくみ、それがとりもなおさず呼吸ということです。酸素を取り入れて、摂取した栄養素を燃やします。そのとき熱が発生します。哺乳動物の主要な熱生産器官は肝臓と褐色脂肪組織です。褐色脂肪組織は背中、肩甲骨のあいだに広がっています。そこで血液が温められ、その熱は全身に運ばれます。最終的に熱は体表から放散されていきます。

マウスは小さな身体の割に体表面積が大きいので、熱の収支を維持するため、常に熱を生産し続け、循環させなければなりません。だからこそ必死に呼吸をし、必死に心臓を動かしているのです。代謝回転の速度が速いのです。
そしてこの営みは文字通り、生物をして生き急がせることになります。単位時間あたりの呼吸数が多いということは、それだけ細胞が酸素にさらされ続けるということです。酸素は燃焼のために必須ですが、同時に酸化ストレスをもたらします。活性酸素というのは酸素呼吸のプロセスで出現する反応性の高い酸素のことです。細胞膜は油脂でできていて、活性酸素による酸化をもっとも受けやすい場所のひとつです。タンパク質や核酸も酸化による攻撃を受けます。修復機構もありますが、酸化は時間とともに不可避的に細胞や組織を傷めていきます。この損傷が蓄積する過程が老化です。そしてマウスの平均的な寿命は2年。人間から見るとわずかな時間ですが、決して不幸なのではありません。マウスたちは妊娠期間(約20日、ハツカネズミのハツカはここから来ています)も、生まれてから大人になる速度も速く、充実した生のすべてを急ぎ足で駆け抜けていくのです。