「いずれの山が天に近き(抜書) - 池澤夏樹」新潮文庫 母なる自然のおっぱい から

 

 

「いずれの山が天に近き(抜書) - 池澤夏樹新潮文庫 母なる自然のおっぱい から

富士山が日本一の山であるということはいつごろから世間に知れわたっていたか。本当はこの日本一という言葉の意味を厳密にしたいのだが、それはもう少し先に延ばして、ともかく知っている範囲でなるべく古いものを考えているうちに、『竹取物語』の中に富士山についての記述があることを思い出した。この話、成立は平安中期、十世紀の前半だからずいぶん早い。問題の箇所は月の世界から来た美女を主人公とするこの物語の最後の部分である。かぐや姫は迎えに来た天人の一人に下界の穢[けが]れを除く霊薬を与えられる。自分でそれを服用した後、地上の人間にとっては不死の薬となるこの薬を天皇に残した。しかし、なおも彼女を慕う天皇は、かぐや姫のいない世で長生きしてもしかたがないと、これを口にしなかった。そして近臣たちを集めて「いづれの山が天に近き」とたずねたのである。すると、中の一人が「駿河の國にあるなる山なん・・・」と答えた。そこで天皇は、「逢ふことも涙にうかぶ我身には死なぬくすりも何にかはせむ」という歌を添えて、かぐや姫が残した手紙とこの霊薬を使者に持たせ、富士山の頂上で燃やさせた。その煙がいつも霊峰から昇るあの噴煙だというのである。
天に最も近いというのは、つまり標高が高いということである。この場合、富士山は具体的な高さにおいて日本一であるという認識が当時の知識人たちの間にはあったことになる。天からきたかぐや姫から貰ったものだが、自分には無用なので天に返す。それには最も天に近い山から、昇る力を与えるために燃やして煙にするという形で送る。そういうことなのだろう。ロマンティックである以上になかなか皮肉でユーモラスなこの物語の中の富士は二つの資質をもって紹介されている。一つは先に書いたように日本一の高さを誇る山であることであり、もう一ついつも頂上から煙が立ち昇っている山だということである。高さの話は措[お]いて、煙のことを説明しておく。
実は古代から中世以降ずっと、富士山と聞いて人が思い出すのは高さのことよりもこの煙の方だったらしい。そして、歌枕としての富士は、立ち昇る煙を抑えきれない恋の思いの象徴とするという形でのみ、人の精神に出入りした。

富士の根のもえ渡るともいかがせん
消[け]ちこそ知らね水ならぬ身は
(後撰集・紀乳母[きのめのと])

煙たつ思ひも下や氷るらん
ふじの鳴澤[なるさは]音むせぶなり
(続古今集後鳥羽院)

だいたい歌枕というのはそういう非現実的なものだ。地名を単なる記号として扱うのは歌人の心得でもある。正徹[しようてつ]日記に、「人が『吉野山いづれの國ぞ』と尋ね侍[はべ]らば、『只[たた]花にはよしの山、もみぢには立田を讀[よ]むことと思ひ付きて、讀み侍る計りにて、伊勢の國やらん、日向の國やらんしらず』とこたえ侍るべき也[なり]と言う具合だから、紀乳母がこの歌を詠むに際して富士山を実際に見たと信じる必要はさらさらない。

富士山の具体的な噴火の記録を見ると、九世紀に二度ほどずいぶん大きな噴火をしたが、一〇八三年の中規模の噴火の後四〇〇年ほどは静かにしていた。十六世紀にも小規模な噴火、その後に、一七〇七年の爆発的な大噴火があったわけである。九世紀から十一世紀までの噴煙の記憶がずっと文学的な富士山のイメージを作ったのだろう(富士の語源として最も信憑性があるのはアイヌ語のフチ、すなわち火である。おそらくアイヌの人々がこのあたりにいた頃から煙は上がっていたのだ)。
では、なぜ『竹取物語』の中で天皇に「いづれの山か天に近き」とたずねられた近臣が「駿河の國にあるなる」と的確に答えを出すことができたのか。ここで敢えて富士と呼ばず、駿河という土地の名だけを出して遠回しに言っているのは、不死の薬を燃やしたということと、多くの武士が薬を山頂に運んだということからフシという音と、士に富むという字とが生まれ、それがあの山の名となったというほとんど冗談のような山名の語源説を後の段で披瀝したいからに他ならない(しかし、古代の地名語源説の大半はほとんど冗談のようなものなのだ。それはまたひねった形での言魂信仰の表れでもあるのだが)。
富士はなぜ近代地理学の成立以前に日本一の称号を誇ることができたのか。ぼくはこれはほとんど偶然だと考える。まず第一に富士山はいやに目立つ山である。周囲にいかなる山もない独立峰であり、加えてあの形だ。それに、平安時代以降ずいぶん人の行き来の多かった東海道からよく見ることができる。街道は海に沿っているから、そこの標高は可能なかぎり低い。そこからなだらかな稜線とどこまでも広がる裾野がすべて見えるというのは、それだけで高いという印象を見る人に与える。この道に沿って旅をする者は、振り仰げば富士が見える区間を何日もかけて通過することになる。その上にあの陳腐なほどのシンメトリーだから、これほど印象的な山はない。そこから信仰のように、あれが日本一の山という説が生まれたのは人の心理のからくりとして当然と言える。しかし、それが白山との厳密な比較を経ての判断であるかとか、数字で表現すればどういうことになるかという設問は古代の人の頭には宿らなかった。天に最も近いという評判は、実は具体的な裏付けを欠いたのである。

目立つ分だけ得だという主張の証しとして、目立たない山のことを考えてみよう。日本一の山が富士だというのは誰でも知っている。それでは日本で二番目の山はどこかという問いに答えられる者はめったにいない。答えは南あるぷす(赤石山脈)の北岳。甲斐の白峰[しらね]と称される山々の一つで、標高三一九二メートル。そう聞いても具体的な山容は思い浮ばない。なぜならば、この山はほとんど同じくらい高い山々によって包囲されているのだ。この峰が最も北で、すぐ南には間[あい]ノ岳(三一八九メートル)があり、続いて農鳥岳[のうとりだけ](西農鳥岳のピークで三〇五一メートル)がある。この三峰を合わせて白峰山なのである。この数字からわかるとおり、北岳間ノ岳は三メートルしか違わない。この二峰の間は三キロあまるある。これではどちらが高いか肉眼で判断することはできない。不運なことに、日本で二番目の高さを誇るはずの北岳はそれ一つでは周囲を圧倒する霊峰とは見えないのだ。それに、南アルプスの山々は懐が深いから普通に旅する者の目に触れにくいということもある。『平家物語』に、一谷[いちのたに]で捕らえられた平重衡[たいらのしげひら]が鎌倉へ送られるくだりで「宇津の山邊[やまべ]のつたの道をも心ぼそくもうち越えて、手越[てごし]を過ぎて行けば、北に遠ざかつて雪しろき山あり『いづくやらん』と問ひ給[たま]へば、『甲斐の白根』とぞ申しける」とあるのが今の白峰三山ならばいいのだが、実はこれは悪沢岳赤石岳のあたりらしい。御本尊はもっと奥にある。それほど見えない山なのだ。富士山との標高の差の五八四メートルは歴然たる数字だが、それにしても北岳は場所が悪かった。
この事実はまた登頂記録の差ともなって表れる。信用するか否かはともかく文献上では、富士山に最も早く登ったのは役行者[えんのぎようじや]とされているから、これは七世紀の末。もう少し具体的な例としては『本朝文粋[ほんちようもんずい]』の中の都良香[みやこのよしか]の「富士山記」という文章がある。これには頂上の稜線から見下ろした火口の風景の描写まであるのだから、都なにがし自身が本当に自分の足で登ったかどうかはともかく、誰かが頂上を踏んだとは考えていいだろう。
それに対して北岳にはじめて人が登ったのは、一八七一年(明治四年)。麓[ふもと]の芦安村[あしやすむら]の名取直江なる人物の壮挙とされている。この後、一九〇四年には日本近代登山の開祖として有名なイギリス人W・ウェストンが登っている。九世紀半ばの都良香に遅れること実に一〇〇〇年。それほど富士山は地の利を占め、目立っており、登りやすくもあったのである。
富士山が日本一になった経緯をぼくが偶然というのは、万葉集以来ひたすら名を轟かせてきた富士山が実際にも日本で一番高い山だったからだ。目立つ場所にあって形が恥ずかしいほど派手な山が日本一と呼ばれるのは理解できる。しかし、だからといって、何も本当に日本一である必要はなかったのではないか。日本の山というのはだいたい三二〇〇メートルをわずかに切るあたりで打ち止めになっている。北アルプス南アルプスを通じてそういう了解があるかのようだ。先ほどの北岳が三一九二メートル、次が奥穂高の三一九〇メートル(その差わずかに二メートル)で、以下、間ノ岳槍ヶ岳悪沢岳(東岳)、赤石岳荒川岳御嶽山農鳥岳塩見岳仙丈ヶ岳乗鞍岳立山大汝山、そして三〇一三メートルの聖岳という具合。この十五座が日本で三〇〇〇メートルを超える山ということになるが、このあたりの山々になると、麓から見ていたのではどれがどれより高いか見当もつかない。山の標高はおろか高さの相対的な順位でさえ、下から見たのではわからない。最も高い富士山が最も見えるところにあって最も目立つ形をしていたというのは、やはり偶然だったということになる。