「フランス留学 - 水道橋博士」キッドのもと から

 

「フランス留学 - 水道橋博士」キッドのもと から

 

芸人としての揺籃期[ようらんき]、ボクたちは「浅草キッド」という芸名そのままに、浅草で修業時代を過ごした。いや、正確には、浅草で漂流していた。
ボクたちが住み込みで修業していた浅草フランス座はヌード劇場、いわゆるストリップ小屋だ。往年は日本一の繁華街であった浅草六区の中心地であり、ストリップの幕間に演じられるコントが一世を風靡し、渥美清東八郎てんぷくトリオコント55号などの名だたる芸人を輩出した、東京喜劇の登竜門として広く知られていた。
そして七十年代初頭-。
何をやっても物にならなかった明治大学工学部中退の青年、北野武が、この“終着の浜辺”に流れ着く。そこから、荒涼たる砂浜を砂金に変えて見せた、黄金のビートたけし伝説が始まるのだ。
弟子志願者にとっては芸人ビートたけし生誕の地として、文字通り、聖地だったフランス座も、しかしボクたちが住み込みを始めた一九八六年当時は、もはや「コメディの殿堂」と呼ばれたかつての面影はなく、老朽化した劇場で細々とストリップ小屋としての営業を続けていた。
その頃、殿との親交が続いていたフランス座には、軍団の余剰人員の生き残りを懸けた局地戦の地として、定期的に軍団から若手が派遣されていた。
当時、長くフランス座の経営を預かりつつ、コメディアンとして舞台にも上がっていたのが、フランス座の主、通称・岡山社長だ。社長は、その昔、無名時代のビートたけしとコンビを組んでいたことがあった。そのツテで、働き手が足らなくなると、一番弟子のそのまんま東を皮切りに、軍団から若手が若手が劇場に送り込まれたのだった。
そして、ボクが軍団に紛れ込んだ時にも、ちょうど劇場のほうから「人手が足らないんで二人ほど若い衆が欲しい」」と声が掛かった。
ある日、『風雲!たけし城』の休憩時間にプレハブの楽屋で出番を待っていると、
「オマエらの中でよぉ、フランス座に行きたいヤツいる?」
と殿が聞いた。同じ時期に弟子入りした新人は五人いた。
「待ったました!」とばかりに、迷わず挙手したボクと玉袋[アイボウ]。しかし、てっきり志願兵はボクら二人だけだと思っていたら、その場にいた全員がすかさず手を上げていた。
二人枠に五人の志望。殿は、そこでも選別することはなかった。即座に「じゃあ、全員行ってこい!」と言い渡し、フランス座への派兵が決定した。

当時、ビートたけしの人気は絶頂を迎えていた。その恩恵を受け、たけし軍団までもが売れっ子の仲間入りを果たし、トップアイドルさながらに追っかけすら群生していた。
そのような活況を横目で見ながら、しかしボクと玉袋が常に話題にしていたのは「ドリフターズのボウヤ論」だった。
「今まで、ドリフに何人のボウヤ(付き人)がいたと思う?そこから出てきたのは、二十年間で志村けんだけだよ。このまま軍団の下っ端を続けていてもチャンスはない!」
実際、たけし軍団の十人だけで、テレビ用のキャラクターは、バカ、チビ、デブ、メガネ、ハゲと全員集合、すべてのラインナップを取り揃えている。
しかも、軍団の下には二軍である、たけし軍団セピアが五人もいた。ボクたちは十六番目の弟子であり、おまけに二人揃ってキャラクターもなければ芸もなかった。
「俺たちは芸なしだから、フランス座に行って修業しよう!」
やがて、それが二人の合言葉になった。
フランス座行きを希望する理由は、他にもあった。当時、まだ自分が芸人になれるとは思っていなかったボクは、ビートたけしとは何者なのか、その人生の足跡を辿って体験取材をしたいという気持ちも強く持っていた。
ルポライター竹中労風に言えば、「エラい人は下賤のドブ板まではご存知ない」。それでは「何も見えてこない」と思っていた。たぶん、この頃から、すでにボクのルポライター芸人的な体質は芽生え始めていたのだろう。
また、時代の趨勢とは裏目である「貧乏志願」もあった。
時は一九八六年。誰もまだそれを「バブル」とは呼んでいなかった、かの好景気の絶頂点。高校を卒業したばかりの玉袋の同級生たちでさえ、最初の自家用車としてベンツやソアラを乗り回していた。
泡沫経済のさなか、芸人らしくあるために、あえてソアラではなくイバラの道を歩み、ベンツを乗り回すより踊り子さんの脱いだパンツを片付けて回る-そんな世間の浮かれ具合とは真逆の 、どん底の澱みきった貧乏を味わってみたいと思っていた。
さらには、止むに止まれぬ個人的な事情もあった。
親への了承を得ることもなくビートたけしへの弟子入りを決め、下宿を引き払い、いつの間にか消息を絶っていたため、親からの捜索網に追われていたのだ。
このままでは捕まるのも時間の問題だったため、どこかに身を隠す必要があった。それには、この場末の吹き溜まり、フランス座に潜伏するのが、まさに打ってつけだった。

フランス座修業の初日-。
ボクたち五人を預けるために、浅草の国際通りに真紅のポルシェを横付けにして劇場を訪れた殿は、ジーンズに真っ赤なポロシャツ、腕には金のロレックスがピカピカて光っている。そして、昔なじみのテケツ(切符切り)のオバちゃんと懐かしそうに話をしながら、たったひとりでフランス座の入り口に立っていた。
二十年前、フランス座に流れ着いたフーテン暮らしの若者であり、エレベーターボーイとして劇場に潜り込むと同時に芸人暮らしを始め、その後、笑いで天下を取った、あのビートたけしが今、ボクたちのような有象無象の芸人の振りだしに立ち会っているのだ。
この日の殿の姿は、まるで蜃気楼のようだった。
「おい、ここに三年いたらよぉ、芸人の匂いが染みて、オメェらもよぉ、いい匂いがしてくるぜ!」
そう言い残して、殿は颯爽と走り去っていった。

 

こうして、ボクたちの浅草生活が始まった。
下宿を引き払い、退路を絶ち、覚悟は決めていたが、初めて足を踏み入れた浅草はカルチャーショックの連続だった。通り過ぎるだけなら、そこまでの印象を持たなかっただろうが、いざ住んでみると強烈な現実が迫ってきた。
道端には行き倒れた浮浪者、まだホームレスという呼び名がなかった時代の、リアルな乞食がそこにいた。ひさご通りでは、六十歳を優に超えているであろう婆さんが現役で「立ちんぼ」を開業していて、賞味期限切れの春を売っていた。
その光景は、ビートたけしがこの街にいた七十年代と何ら変わっていなかった。
貧乏を望んで飛び込んでみたら、待っていた現実は、それ以下の生活、文字通りの「どん底」であった。
どん底の下にも、まだ蓋があったぜ!」
かつてビートたけしが語った、最悪の二番底でサバイバルするストリップ小屋の暮らしが、否応なく襲い掛ってきた。

 

劇場の仕事は、お客の呼び込みから、照明係や幕間のコント、さらに踊り子さんのパンツ運びまで、要するに何でも屋だった。
最初に劇場の前で法被を着て呼び込みをやらされた時は、昼間から「ヌードにコントはいかがですかぁ?」と大きな声をあげることより、浅草六区のど真ん中、目の前が交番という、ロケーションに戸惑った。
お巡りさんの目の前で、ボクはいったい何をやっているのだろう?
日が経つにつれ、それぞれの担当が、玉袋は照明係、ボクはエレベーター係と固定してくる。
ストリップ小屋での仕事と書けば、「女の裸ばかり見られてうらやましい」などと思われるかもしれないが、踊り子さんは年金生活者のような年齢の人たちばかり。舞台の上で突然バタリと倒れると、そのまま動けなくなることもあり、さながら要介護ヌードショーだった。
フランス座の日給も、ビートたけしの著書に書かれていた二十年前の金額から変わっていなかった。劇場で八時間、その後、社長の経営するスナックを八時間手伝う十六時間労働で、手渡されるのは一日わずか千円。時給にすると、およそ六十円。しかし、この給料の中から田舎に仕送りをする先輩がいて、思わずボクは「ご実家はネパールですか?」と聞いたほどだ。
絵に描いたような赤貧生活だった。当然、下宿なぞ借りられるわけはなく、もとから劇場にいた芸人もどき五人と新入りのボクたち五人の、合計十人以上もの男が劇場に寝泊まりしていた。
劇場は広い。ふとん部屋ぬ照明室、舞台へ繋がるらせん階段、どこでも、ところかまわず、雑魚寝をした。夏は涼しいからと舞台で寝たり、布団を敷けば、そこが塒[ねぐら]であった。

お金がないので、一日一食の生活が続き、ボクらはみるみるうちに痩せ細っていった。
忘れがたいのは、二百五十円弁当として有名だった「ぱくぱく弁当」の海苔弁当についた磯辺揚げだ。これを食べると、思わず「キク~!」と叫びたくなるほど、油分がなくカラカラに干上がった身体の毛細血管に油が染みていくのが体感できるため、完全な合法ドラッグになっていた。
ボクらのあまりの困窮ぶりを見るに見かねた踊り子さんたちが、炊き出しを作ってくれたこともあった。メニューは「すいとん」だった。
戦後の思い出話を綴った本などを読んでいると、すいとんのおいしさを語るエピソードがよく出てくるが、ボクらにとっては、あの時の空腹状態をもってしても、たいして旨いものではなかった。きっと、すでに物が溢れている時代だったからだろう。
当時の仕事で、精神的にもっともこたえたのは、お客がストリップを見ながら客席で抜いていった精液を掃除する時だった。ぶちまけられた白い汚物を拭きながら「俺、今、堕ちてるなぁ・・・」としみじみ実感したものだ。
生きるか死ぬかのどん底生活、その中での文字通りの「精と子を見つめて」だった。
そう言えば、ボクの窃盗デビューも浅草だった。
芸人たるもの、不良を気取り、誰しも大なり小なりのワルの自慢をするものだが、ボクの場合は「自分は万引きすらしたことがない」という育ちさえも、コンプレックスに感じていた。
ある日、いつものようにエレベーター係をしていると、競馬帰りの中年が酩酊状態のままエレベーターに乗ってきた。よく見ると、ズボンのポケットから千円札がはみ出している。思わず魔が差した。気がつくと、ボクはその千円札を抜き取っていた。
その後、酔客相手に何度か同じようなことがあった。そして、ある時、ついに客に気づかれ、トラブルになった。エレベーターの中で取っ組み合いになったが、相手は泥酔状態だったため、力づくで劇場から叩き出した。
目の前には交番があったのに、なぜか酔客は抗議をすることもなく、顔見知りのお巡りさんが介入することもなかった。
「ここはなぁ、弱肉強食なんだよ!」
息を切らしながら叫んだ、最後のボクの捨て台詞さえ、わけのわからないものだった。
これらの出来事に、当時は良心の呵責すらなかった。
そんなサバイバル生活が板についてきた、ある日-
とうとうフランス座にまで“捜査”の手が及ぶこととなった。失踪したボクの足取りを掴んだ両親が、劇場に乗り込んできたのだ。
その日、エレベーター係をしていたボクの前に、見覚えのある顔が突如、現れた。両親だった。途端、ボクは脱兎の如く、屋上へと逃走した。
テケツのオバちゃんが対応し、両親と「息子を返せ!」「返せない」の押し問答を繰り返した。そのうち、劇場の前に人だかりができ、さらには岡山社長が直々に交渉を始め、最後は「もうお子さんも成人なんですから・・・」と説得した。
それでも、翌日も、翌々日も両親は劇場までやって来た。そのたびに、ボクは屋上へ逃げて、決して会おうとはしなかった。ボクは、そんな母の執着ぶりに、かつての飼い犬・マキの捜索を思い出し、この騒動は長くなりそうだと思った。
その様子を見るに見かねたのだろう、ついには向かいのお巡りさんも介入してきた。そのやり取りは、八十年代後半から始まるオウム真理教騒動で、出家信者になった息子を奪回するため、上九一色村にあったオウムの道場に親たちが詰め寄るニュース映像を先取りしたようなものだった。
そして四日目、両親は来なかった。あれほど息子奪回に情熱を燃やしていた両親が、その後、なぜ劇場に現われなくなったのか?
実は、両親が浅草で逗留したホテルは、その手の趣味嗜好の人が男性パートナーを求めて泊まる日本有数のハッテン場だった。ロビーや廊下を男たちがブラブラと行き交い、夜ともなれば、両隣の部屋からヒーヒーと野太いあえぎ声が漏れ聞こえてくる。
息子を奪回しに来たはずが、男同士がパートナーの“息子”を奪い合う「リアル息子奪回」の競技場に紛れ込んでしまったのだ。両親の執念が萎えたのも無理はなかった。
この一件を人に話す時、
「まさに“ゲイは身を助く”だ!」
といつもオチをつけて笑いにしていたが、今、自分が親になり、改めて、この日の両親の心境を考えると、いたたまれなくなる。
ちなみに、後に兄の話で知ったのだが、両親は親戚の集まる席でボクの所在を聞かれると、「フランスに留学しとんじゃ」と答えていたそうだ。
息子の居場所がフランス座と調べがついてから考えた、苦肉の言い訳だったのだろう。

 

肝心のフランス座の幕間のコントは、どれもこれも恐ろしく時代遅れで完全に錆ついていた。客は毎回五、六人程度、それもほぼ全員が競馬の合間に来ている人たちだったため、彼らの笑いのレベルに合わせようとしていたのだ。
ところが夜の部になると一転、はとバスの周回コースのひとつに入っていたため、客席は満員になり、舞台の上では長谷川伸原作の手の込んだ時代劇仕立て、マゲ物喜劇が繰り広げられる。これが、ボクらの世代には見慣れておらず、実に新鮮で面白かった。
そんな舞台を毎日観ながら、ボクたちが初めて人前に立ったのは、フランス座修業をはじめてから二ヶ月が経った頃だった。
とはいえ、芸に関してはズブの素人である。当然ながら反応は皆無。それ以前に客はわずか二、三人しかいなかった。
そのうち、なんとか、はとバスのお客さんの前でコントをやれるくらいまでにはなったものの、時事ネタやつかこうへいを真似たネタを盛り込んだコントは、客ウケするはずもなかった。
芸人としては前途多難だった。将来、自分が「売れる」と思ったことはなかった。

 

しかし、この修業時代が、芸人生活でもっとも楽しかった時期であることも事実だ。夜な夜な同世代で集まっては、布団部屋でバカ話に興じていた。特にボクは玉袋が語る、新宿で過ごした少年時代の話が大好きだった。
それは田舎育ちのボクとは違う、新宿の高層ビル街を舞台にした、いかにも都会っ子らしい青春グラフィティだった。巨漢のいじめっ子や万引き団の話などを、玉袋が岡山社長を真似て石川弁で喋るという趣向で、ボクは毎晩のようにリクエストして聞き入った。
当時は、正式にコンビを組んでいたわけではなかったが、常日頃から、地喋りの面白いヤツだなぁと思っていた。アトランダムにメンバーを変えるコントで舞台に立ちながら、次第に、いつか玉袋と漫才をやってみようという気になった。

 

劇場の思い出は尽きないが、なかでも強烈に記憶に残っているのが屋上での水浴びだ。
当時のボクらは、毎日、銭湯へ行く金すらなかった。そのため、真夏の熱帯夜には、劇場の火災報知器の下に収納されていた緊急用の防水ホースを引っ張り出し、半地下の便所の中へ引きこむと、順番にホースで水浴びをした。
圧倒的な水圧で暴れまわるホースを持て余し、大声をあげて、素っ裸で水を掛け合う。なんとも言えない解放感だった。
その後、この行事を屋上でやるのが祭りのように恒例になった。
屋上の貯水タンクの巨大蛇口からバケツに水を汲み出して、全員がフリチンになる。そして、互いにバケツの水を掛け合うのだが、次第にゲーム化し、相手の背後から不意をついては、毎回、大騒ぎになった。
粘ついち垢だらけの身体に、バシャー!と大量の水を掛けられると、まるで動物園の象になった気分だった。
そして、どうせ最後に水で流すのだからと、いつの間にか、背後から小便を掛け合うようになっていった。剥き出しにしたポコチンを銃のように持ったまま、キャッキャッ言いながら逃げまわる。実にくだらない遊びだったが、ボクらにとっては、まるでペナントレース優勝後のビール掛けの乱痴気騒ぎのような、高揚感に包まれた儀式だった。
ある夜、いつものように屋上でバケツの水を掛け合っていると、ドーン、ドーンという遠雷のような破裂音が遠くに鳴った。フランス座に来てから暦など意識もしていなかったので、気がついていなかったが、この日は隅田川の花火大会だった。
「上から見ようぜ!」
先輩の声に合わせて、その場にいた全員が、屋上に取り残されていた年代物の火の見櫓に登った。錆びれた鉄骨の上に板を並べただけの小さな桟敷、しかし、そこは花火見学には絶好の特等席だった。
生ぬるい夏の夜風の感触をフリチンの身体に感じながら、遥か先で次々と鮮やかに爆裂する花火の閃光をボクらはただじっと眺めていた。

 

フランス座を出ていく日は、思いのほかあっけなくやってきた。
劇場に寝泊まりするようになってから七ヵ月が過ぎた頃、経営不振で、劇場のオーナーが変わることになった。折しも殿がフライデー襲撃事件で逮捕された直後で、たけし軍団の先輩からは「お前らに戻る場所はない」と言い渡された。
つまり、フランス座に残ることも、元の場所に戻ることもできない八方塞がりに陥ったのだ。
劇場明け渡しの前夜、コメディアンと踊り子さんで最後の晩餐を決め込んだ。呑むほどに酔い、血が滾[たぎ]り、やがて、何処にもぶつけようのないフラストレーションが爆発した。
「このまま他人に明け渡すなら、最後にひと暴れしてやろうぜ!」
全員が立ち上がった。
その後は、コメディアンも踊り子さんも泣き合い笑い合いながら、狂ったような嬌声とともに、金属バットや竹刀を持って、自分たちの手で劇場をメチャクチャに破壊した。
館内に非常ベルがけたたましく鳴り響き、消火栓の蓋を開けると、水飛沫がプシューッと狼煙のように天上に向けて上がった。
劇場が水浸しになり、階下の演芸ホールにまで水が漏れ出したところで逮捕され、目の前の派出所から駆けつけたお巡りさんに、現場にいた全員が連行された。
ここまでの破壊活動をすれば、確実に器物破損の現行犯だった。おまけに、殿とたけし軍団フライデー事件で謹慎中なのだ。騒ぎが警察沙汰になれば、マスコミの格好の餌食になることは火を見るよりも明らかだった。
しかし、この下賤のドブ板の吹き溜まりで、いつもデタラメに鈍い暮らしを続けていた先輩が、毅然と「俺が全部やりました!」と名乗りで、ひとりで罪をかぶった。
それは、まるで夏の一夜に花火がキラキラと輝くようなできごとだった。
お巡りさんもすべての事情を察していた。なにしろ、ボクたちのズンドコな修業ぶりの一部始終を、ずっと横目で眺めていたのだ。
ここでは詳述を避けるが、この日は自分の人生の中で、もっとも小説のように美しく、もっとも映画のように劇的な夜だった。

 

フランス座で得たものは、サバイバル感、嘘のような本当の“下層”現実、どん底の体験がすべてだった。
おかげで、「人生に期待しないこと」や「どこへ行ったって、ここよりはマシ」と現実に足ることを知り、どんな境遇にも身を投じる覚悟、芸人の匂いが刷り込まれた。芸人の底辺のようなところに浸かったからこそ、その匂いは、今もしっかりと身体の奥に染み付いている。
多産多死型の魚のように、最盛期には三軍、四軍構成を誇った膨大な人数の中からたけし軍団に残ったのは、結局、生え抜の一軍を除くと、「浅草」の名を冠したボクと玉袋の二人だけだった。
今振り返っても、フランス座に行かなきゃよかったとは微塵も思わない。むしろ、あそこに行ってなかったら、ボクはきっと、とうの昔に芸人を辞めていただろう。