「一貫性のない生活 - 土屋賢二」純粋ツチヤ批判 から

 

「一貫性のない生活 - 土屋賢二」純粋ツチヤ批判 から

 

わたしの行動には一貫性がない。若いころ、一人の哲学者を理解するのにほぼ十年費やした(その結果、その人の哲学は納得がいかないことが分かった)。四十歳を過ぎてピアノを始めたときは、曲がりなりにも弾けるようになるのに最低十年はかかるだろうと覚悟していた(二十年以上たってもちゃんと弾けない)。そういうことに十年かけるのは何とも思わないが、待ち合わせで人を待つときは五分でイライラするし、パソコンは一マイクロ秒でも速いものをほしがるのである。
他の人も似たり寄ったりではないかと思う。多くの人は、スーパーで買い物をするときは十円の違いにもこだわるのに、家を買うときは十万円違っても気にしない。長生きしたいと願っているのに、年は取りたくないと願う。服を買うときも、あるときは価格の安い方を選び、あるときは価格は高くてもセンスのいい方を選ぶ。あるときは腹いっぱい焼肉を食べ、あるときはおいしくもない野菜ジュースで我慢する。
税金は払いたくないと思う一方で、手厚い行政サービスを受けたがる。「アフリカの飢えた子どもを助けろ」と思いつつ、「わたし以外のだれがが」と思っている。牧場で草をはむ牛を見てかわいいと思い、帰りに牛丼を食べる。ふだんは人目を気にして、他人のちょっとしたことばに一喜一憂するのに、急になりふりかまわぬ行動に出る。ケチケチした金の使い方をしているかと思えば、突然、恐ろしいほど浪費する。
なぜ一貫した行動ができないのだろうか。それは、われわれが多くの価値を手に入れたがっているからだ。手に入れたがっている価値は、生存、富、愛、評判、健康、長生き、快適さ、平和、快楽、美、などだ。残念ながら、実際の行動の中では、一つの価値を手に入れると他の価値を犠牲にしなくてはならないという仕組みになっている。食堂で料理を選ぶにも、健康を考えるとおいしさを犠牲にしなくてはならず、おいしくて健康にいいものを選ぶと金銭を犠牲にしなくてはならなかったりするのだ。実際の行動ではどれかを捨てなくてはいけないのに、価値を一つでも完全にあきらめることは難しい。ではどうするか。
われわれのほとんどがとっている方針は、「あれもこれも、ちょっとずつ」というものである。たとえば、食堂でおいしさを得ようとしてカツ丼を注文し、健康のために野菜サラダを追加する。食べ終わって電車に乗り、人を押しのけてでも席に座ろうとする(健康のためにはならないが、ラクができる)。電車を降りて健康のためにスポーツジムに行き、ラクをしようとエレベーターに乗って二階に上がる。ジムからの帰りに喫茶店に寄り、快楽のためにコーヒーを飲んでケーキを食べる。
われわれはこのような一貫しない行動を繰り返して人生を送っているのだ。健康になりたいのかなりたくないのか、快楽を味わいたいのかあきらめたいのか、本人もはっきりせず(いったい何を手に入れたくて生きているのか)、どの価値も捨てられないままどっちつかずの人生を送っているのである。
こういう人生には迷いや後悔がつきものだ。肉の脂身を残すべきかどうかに迷うのは、おいしさも健康もほしいのに一方を犠牲にしなくてはならないからだ。脂身を食べて後悔するのは、健康を切り捨ててしまったからだ。
もし何か一つの価値に絞るなら(絞れっこないが)、行動は一貫したものになり、迷うことも後悔することもなくなるだろう。だが、そうなったらすべてを一つの価値で計算し、その結果に機械的に従うロボットのような生活になる。そういう生活を送りたいと思う人がいるだろうか。迷い、後悔し、一貫性のない行動をしている方がはるかに面白いのではなかろうか。