「「羅生門」 - 黒澤明」日本の名随筆別巻63 芸談 から

 

「「羅生門」 - 黒澤明」日本の名随筆別巻63 芸談 から

 

その門は、日ごとに、私の頭の中で大きくなっていった。
羅生門」を京都の大映で撮影するために、京都へ行った時の事である。
大映の首脳部は、「羅生門」の企画を取り上げたものの、その内容が難解である、題名に魅力が無い、なぞと云って、撮影の仕事に入るのを渋っていた。
その間、私は、京都や奈良の古いいろいろな門を毎日見て歩いていたが、そのうちに、羅生門の大きさが、最初に描いていたものよりも、次第に大きなものになっていったのである。
最初は、京都の東寺の門ほどの大きさだったのが、奈良の転害門の大きさになり、遂に仁和寺東大寺の山門ほどの大きなものになってしまった。
それは、古い門を見て歩いたためばかりでなく、羅生門という門についての文献や、その遺物などを調べた結果でもあった。
羅生門とは、羅城門の事で、観世信光の作った能の上で云い替えた名前である。
羅城とは、城の外郭の事で、羅城門はその外郭の正門である。
羅生門」という映画のその門は、平成京の外郭の正門で、その門を入ると一直線の都大路の北端に朱雀門、東西に東寺と西寺があったのだ。
それを考えると、外郭の正門である羅城門は、郭内の東寺の門より大きくなくてはおかしい。
また、残っている羅城門の瑠璃瓦の大きさから見ても、その門が巨大なものだったのがわかった。
しかし、いくら調べても、羅城門の構造はよくわからなかった。
だから、映画「羅生門」の門は、寺院の山門を参考にして建てたもので、おそらく、本来の羅城門とは違う筈である。
それを、セットとしては、あまりに大きいので、上部の屋根をまともに作ったのでは、柱がそれを支えきれないので、荒廃しているという設定を口実に、屋根の半分を毀したり寸法を盗んだりして建てた。
また、門の向うには、内裏や朱雀門が見える筈だが、大映のオープン・セットの敷地には、そんな広さはないし、そんな事をしたら予算が大変な事になるから、門の向うには大きな切り出しの山を建てた。
それにしても、随分大きなオープン・セットになってしまった。
私は、この映画の企画を大映に持ち込む時、セットは、羅生門のオープン・セットが一つ、他に検非違使庁の塀、あとは、ロケーションだけ、と云ったので、大映は喜んでこの企画を取り上げたのである。
後で、川口さん(松太郎、当時、大映重役)が、黒さんには一杯喰わされたよ、一つには違いないが、あんな大きなオープン・セットを建てる位なら、セットを百位建てた方がよかったよ、と愚痴をこぼしていたが、正直なところ、私もあんな大きなものを建てる気はなかったのだ。
前に書いた通り、私を京都へ呼んでおいて、何時までも待たせておくから、段々イメージがふくらんで、あんな大きな門を建てる事になってしまったのである。

羅生門」という企画は、松竹で「醜聞」を完成した後、大映から何かもう一本、という話があって、それから考えたものである。
何を撮ろうか、いろいろ考えているうちに、ふっと思い出した脚本があった。
それは、芥川龍之介の『藪の中』をシナリオにしたもので、伊丹さん(万作、監督)に師事している橋本という人が書いたものだった。
そのシナリオは、なかなかよく書けていたが、一本の映画にするには短す過ぎた。
それを書いた橋本という人は、その後、家に訪ねて来て、何時間か話をしたが、人物もなかなか骨っぽいところがあって、この好ましかった。
この橋本は、後に「生きる」「七人の侍」等を一緒に書いた橋本忍だが、その芥川原作の「雌雄」というシナリオを思い出したのだ。
多分、ほとんど無意識に、あのシナリオをあのまま葬ってしまうのは惜しい、なんとかならないものか、と頭のどこかで考えていたのだろう。
それが、突然、脳の襞から這い出して、なんとかしてくれ、と喚き出したのである。
それと同時に、そうだ、『藪の中』は三つの話で出来ているが、それに新しくもう一つの話を創作すれば、ちょうど映画には適当な長さになる、という考えが浮んで来た。
また、芥川龍之介の『羅生門』という小説の事も思い出した。
『藪の中』と同じ、平安朝の話である。
映画「羅生門」は、こうして、徐々に私の頭の中で育ち、形を整えて来た。
当時、私は、映画がトーキイになって、無声映画の好さを、その独特の映画美を何処かへ置き忘れて来てしまったように思われて、何か焦燥感のようなものに悩まされていた。
もう一度、無声映画に帰って、映画の原点をさぐる必要がある。
特に、フランスのアヴァンギャルドの映画精神から、何か学び直すものがある筈だ、と考えていた。
当時は、フィルム・ライブラリイも無かったので、アヴァンギャルド映画の文献をあさり、昔見たその映画の構造を思い出しては、その独特の映画美を反芻していたのである。
羅生門」はその私の考えや意欲を実験する恰好の素材であった。
私は、人間の心の奇怪な屈折と複雑な陰影を描き、人間性の奥底を鋭いメスで切り開いてみせた、この芥川龍之介の小説の題名『藪の中』の景色を一つの象徴的な背景に見立て、その中でうごめく人間の奇妙な心の動きを、怪しく錯綜した光と影の映像で表現してみたかったのである。
そして、映画では、その心の藪の中をさまよう人間の行動半径は大きくなるので、舞台を大きな森の中へ移し替えた。

その森には、奈良の奥山の原生林と京都近郊の光明寺の森を選んだ。
登場する人物は八人だけ、ストーリイは内容こそ複雑で深いものであるが、シナリオの構成も出来るだけ直截的なものにして短いものになったから、それを映像化する時には、存分に映画としてのイメージをふくらませる事が出来る筈であった。
しかも、キャメラマンは、是非一度仕事をして見度いと思っていた宮川(一夫)、音楽は早坂、美術は松山、俳優は、三船、森、京、志村、千秋、上田、加東、本間、みな気心の知れた人達ばかりの、願ってもない布陣であった。
また、話は夏の話で、撮影もまた夏、それも酷熱の京都と奈良であった。
これだけ、条件がそろえば、いう事は無かった。
あとは、私が思いきって映画と取り組めばいい。
ところが、撮影が始まる前の或る日、大映が私につけた助監督が三人、私の宿屋に訪ねて来た。
何事かと思って用件を聞くと、この脚本はさっぱりわけが解らないので、どういう事なのか説明してもらいに来たのだと云う。
私は、よく読めば解る筈だ、解るように書いた積もりだから、もう少し脚本をよく読んで欲しい、と云った。
彼等は、それでは引き下がらずに、私達は脚本をよく読んだ積りだが、それでもさっぱり解らないので訪ねて来たのだ、と重ねて私に脚本の説明を求めた。
私は、簡単に説明した。
人間は、自分自身について、正直な事は云えない。虚飾なしには、自分について、話せない。この脚本は、そういう人間というもの、虚飾なしには生きていけない人間というものを描いているのだ。いや、死んでも、そういう虚飾を捨てきれない人間の罪の深さを描いているのだ。これは、人間の持って生れた罪業、人間の度し難い性質、利己心[エゴ]が繰り広げる奇怪な絵巻なのだ。諸君は、この脚本はさっぱり解らないと云うが、人間の心こそ不可解なのだ。その人間心理の不可解さというものに焦点を合せて読んでくれれば、この脚本はよく解ってもらえる筈である。
私の説明を聞いた三人の助監督のうち二人は納得して、もう一度脚本を読み返してみます、と立ち上ったが、あとの一人(チーフ助監督)の方は納得がいかぬらしく、怒ったような顔をして帰っていった。
このチーフ助監督とは、その後もうまが合わず、最後には事実上やめてもらうような事になったのは、今でも残念に思っている。
そのほかは、この仕事は気持好く進んだ。

撮影に入る前の稽古では、京ちゃん(マチ子)の熱心さに閉口した位である。
なにしろ、私がまだ眠っている枕許に台本を持って坐り、
「先生、教えておくれやす」
と、云うんだから、驚いた。
他の俳優達も、油の乗りきった盛りで、仕事には精力絶倫だったが、呑む方も喰う方も凄まじかった。
山賊焼き、というものを発明して、よく食べたが、それは牛肉のオイル焼きを、カレー粉をバターで溶かしたたれにつけて喰べるのだが、その時、片手に玉葱を持っていて、時々それにかぶりつくという乱暴極まる喰べ方であった。
撮影は、先ず、奈良のロケーションから始まったが、奈良の原生林の中には、山蛭が沢山いて、木の上から落ちて来たり、地面から這い上ったりして身体の血を吸うのだ。
吸いついた蛭は、なかなかはなれないし、肉に喰い込んだ奴をやっと引き抜いても、今度は血がなかなか止まらない。
宿屋の玄関に塩の樽を置いて、ロケへ出掛ける前にみんな脛や腕や靴下に、その塩をたっぷり擦り込んで出掛けた。
蛭は、なめくじと同じで、塩は敬遠するのである。
当時の奈良の原生林は、巨大な杉や檜が多く、錦蛇ほどの蔦が木から木へくねるようにのびていて、まさに深山幽谷の趣があった。
毎朝、私は、ロケ・ハンもかねて、よくその森の中を歩いた。
突然、その前を黒い影が走る。
野生化した鹿だ。
突然、風もないのに木の枝が降って来る。
見上げると、巨木の上に猿の群がいた。
ロケの宿は若草山の下にあったが、その宿屋の屋根に、巨猿といいたいような猿が来て、私達の賑やかな夕食の席を、じっと眺めていた事もある。
また、若草山の上に月が上って、その月の光の中に鹿の姿がくっきりと見えた事もある。
私達は、夕食後、よくその若草山へ駈け登って、月の光の中で輪を作って踊った。
とにかく、この「羅生門」では、まだ私も若く、もっと若い俳優達は精力を持て余していたから、全く奔放極まる仕事振りをした。

ロケが奈良の奥山から京都の光明寺に移って、祇園祭の頃の油照りになり、日射病で倒れるスタッフが出るようになっても、私達の活気は一向衰えなかった。
みんな午後になると、一滴も水を飲まずに頑張って、仕事が終って宿へ帰る途中、四条河原町ビヤホールで一息に生ビールを大ジョッキで四杯ずつ位ずつ飲んだ。
しかし、夕食は酒抜きで食べて、一旦解散し、十時に改めて集合合図がかかり、それからウイスキーをかぶがぶ飲むのである。
それで、翌日は、ケロッとして汗みずくの仕事をした。
光明寺の森も、太陽光線の都合が悪いと、遠慮会釈なく切り倒した。
光明寺の和尚は、怖い顔をしてそれを見ていたが、日が経つと、率先して森の木を切る指図までしてくれるようになった。
光明寺のロケが終った日、私は和尚の処へ挨拶に行ったが、その時、和尚はしみじみとした調子で、私に云った。
正直、初め、寺の樹をわが物顔に切り倒す私達には、呆れた。しかし、やがて、私達の何か一途に打ち込んだ仕事振りに、引き込まれた。少しでも好いものを観客に見せたい。それだけに凝り固まって、我を忘れている。私は、映画というものが、これほどの努力の結晶だとは、今まで、知らなかった。いや、大変、感銘をうけました。 
和尚は、そう云うと、扇子を一面、私の前に差し出した。
記念に贈られた、その扇子には、
「益衆生[しゆじようをえきす]」 
と、書いてあった。私は、言葉に窮した。
私こそ、この和尚に、深い感銘を受けたのである。
この光明寺のロケーションと羅生門のオープン・セットは、並行したスケジュールに組まれていて、晴れた日は光明寺、曇りの日は雨の羅生門を撮影した。
羅生門のセットは巨大だったから、降らせる雨も大がかりなもので、消防車の助けをかり、撮影所の消火栓をフルに使った。
羅生門の空を見上げたアングルでは、曇り空に雨が溶け込んで見えないので、墨汁の雨まで降らせた。
連日、三十度を越す暑さだったが、巨大な羅生門の開いた扉の空間は風が吹き抜けていて、猛烈な雨を降らすと、その風が冷えて肌寒い位であった。
私には、その巨大な門を、どうしたら巨大に見せられるか、というのが一つの課題だったが、そのためには奈良のロケの時に、大仏殿の巨大な建物を対象にして、いろいろ研究したのが役に立った。

もう一つ、この作品の大きな課題の一つは、森の中の光と影が作品全体の基調になるから、その光と影をつくる太陽そのものをどのように捕えるかという問題があった。
私は、その問題を、太陽をまともに撮る事で解決しようと思った。
今でこそ、太陽にキャメラを向ける事は、珍しい事ではないが、当時はまだ、それは映画のキャメラの一つのタブーであった。
レンズを通してフィルムに焦点を結ぶ太陽の光線は、フィルムを焼く危険があるとさえ考えられていたのである。
しかし、キャメラの宮川君は、この初めての試みに、勇敢に挑戦して、すばらしい映像を捕えてくれた。
導入部の、キャメラが森の光と影の世界、人の心の迷路の中へ入り込んでいくところは、実に見事なキャメラ・ワークであった。
後に、ヴェニスで、キャメラが初めて森の中へ入った、と云われたこのシーンは、宮川君の傑作であると同時に、世界のモノクロ映画の撮影の一つの傑作と称しても好いと思う。
それなのに私は、何故だか、その出来ばえをほめる事を忘れていた。
素晴らしい、と思った時に、素晴らしいと宮川君に云った積りになってしまったらしく、或る日、宮川君と旧知の志村さん(喬、俳優)に、宮川君がキャメラはこれでいいのかどうかととても心配していますよ、と云われるまで、その事に気がつかなかった。私は、志村さんにそう云われて、はじめてそれに気がついて、あわてて云った。
「百点だよ。キャメラは百点!百点以上だ!」
羅生門」の思い出は尽きない。
書いていたらきりがないから、最後にもう一つ、強烈な印象として残っている話を書いてやめる事にする。
その話は、音楽の事だ。
私の耳には、脚本で女主人公のエピソードを書いている時すでに、ボレロのリズムが聞えていた。
そして、早坂にそのシーンのために、ボレロを書いて欲しいと頼んだ。
早坂は、そのシーンに音楽を入れる時、私の隣りに坐って、では音楽を入れてみます、と云った。
その顔と態度には、不安と期待があった。
私も、同じく、不安と期待で胸苦しかった。
スクリーンにその場面が映り、ボレロが静かにリズムをきざみ始めた。
場面は進み、ボレロの響きは徐々に高潮して来たが、映像と音楽はチクバグに喰い違って、なかなか噛み合わない。
私は、しまった、と思った。
私の頭の中で計算した、映像と音楽との掛算は間違っていた、と冷汗が流れるような思いであった。
その時である。
ボレロが一段と高らかに唄い始めた時、突然、映像と音楽はぴったり噛み合って、異常な雰囲気を盛り上げ始めた。
私は、背筋に冷たいものが走るような感動をおぼえて、思わず早坂を見た。
早坂も私を見た。
その顔は、少し蒼ざめて、早坂も異常な感動で慄えているのが解った。
それからは、映像と音楽は、一瀉千里の勢いで、私の頭の中の計算を越えて、不思議な感動を織り上げていった。
羅生門」は、こうして、出来上った。

その間、大映は二度火事に見舞われたが、羅生門の雨の撮影に消防車を動員したのが、まるで火事に備えた予行演習のような効果を発揮して、被害を最小限度にとどめる事が出来た。
私は、「羅生門」の次に、松竹でドストエフスキーの「白痴」をつくった。
この「白痴」はさんざんであった。
松竹の首脳部と衝突し、その首脳部の私に対する反感を反映したかのように、批評という批評は、すべて罵詈[ばり]讒謗[ざんぼう]に等しかった。
そして、次にまた、大映で仕事をする話も大映の方から断られた。
私は、調布の大映撮影所で、その冷たい宣告を聞き、暗然として門を出て、電車に乗る気にもならず、とぼとぼ暗い気持を噛みしめながら狛江の家まで歩いて帰った。
当分、これで、私は冷飯を喰わされる、そう覚悟をきめると、あせっても仕方がないとあきらめて、多摩川へ釣りに行った。
多摩川で、釣竿を一振りすると、その糸がなにかに引っかかってぷつりと切れた。
釣りの仕掛けの予備はなく、早々に竿をおさめて、ついていない時はこんなものだと、考えながら家へ引き返した。
そして、憂鬱に力なく家の玄関の戸を開けると、女房が飛び出して来て云った。
「お目出度うございます」
私は、思わず、むっとして聞いた。
「何が?」
羅生門がグランプリです」
羅生門」がヴェニスでグランプリを獲ったのである。
これで、私は冷飯を喰わされずに済んだ。
またしても、時の氏神が現われたのだ。
私は、「羅生門」がヴェニスの映画祭に出品された事すら知らなかった。
それは、「羅生門」を見た、イタリア映画のストラミジョリイさんの理解ある配慮によるもので、日本の映画界には寝耳に水の事であった。
羅生門」は、後に、アカデミイの外国映画最優秀賞も受けたが、日本の批評家達は、この二つの賞は、ただ東洋的なエキゾチズムに対する好奇心の結果に過ぎない、と評した。
困った事だ。
日本人は、何故日本という存在に自信を持たないのだろう。
何故、外国の物は尊重し、日本の物は卑下するのだろう。
歌麿北斎写楽も、逆輸入されて、はじめて尊重されるようになったが、この見識の無さはどういうわけだろう。
悲しい国民性というほかはない。

なお、「羅生門」に関しては、もう一つ、人間の悲しい性質を見せつけられた。
それは、「羅生門」がテレビで放映された時の事である。
その時、この作品の製作会社の社長のインタビューが一緒に放映されたが、その社長の話を聞いて唖然とした。
彼は、あれほど、この作品の製作に難色を示し、出来上った作品についても全くわけがわからんと憤慨して、その製作を推進した重役やプロデューサーを左遷したにもかかわらず、そのテレビのインタビューでは、この作品の製作を推進したのはすべて自分であると胸を張って話していた。
そして、映画というものは、これまで、太陽を背にして撮影するのが常識であったのに、この作品では、初めてキャメラを太陽に向けて撮影させたのである、とまくし立てて、遂に最後まで私の名前もキャメラマンの宮川君の名前も出さなかった。
私は、そのテレビのインタビューを見ていて、これはまさに「羅生門」だと思った。
羅生門」で描いた、人間の性質の悲しい側面を眼のあたりに見る思いがしたのである。
人間は、ありのままの自分を語る事はむずかしい。
人間には、本能的に自分自身を美化する性質がある、という事を改めて思い知らされたのである。
しかし、私も、この社長を笑う事は出来ない。
私も、この自伝のようなものを書き綴って来たが、果してその中で正直に自分自身について書いているのだろうか?
やっぱり、自分自身の醜い部分にはふれずに、自分自身を大なり小なり美化して書いているのではあるまいか?
私は、この「羅生門」の項を書きながら、その事を反省せずにはいられなくなった。
そして、先に筆を進める事が出来なくなった。
図らずも、「羅生門」は、私が映画人として世界へ出て行く門になったが、自伝を書いて来た私は、その門から先へは進めなくなってしまった。
しかし、それもよかろう。
羅生門」以後の私については、それ以後の私の作品の中の人間から読みとってもらうのが一番自然で一番いい。
人間は、これは私である、ていって正直な自分自身については語れないが、他の人間に托して、よく正直な自分自身について語っているものだからだ。
作品以上に、その作者について語っているものはないのである。