「断腸亭日乗(抄) - 永井荷風」おいしいアンソロジーお弁当 から

 

断腸亭日乗(抄) - 永井荷風」おいしいアンソロジーお弁当 から

八月十五日。陰[くもり]りて風涼し。宿屋の朝飯、鶏卵、玉葱味噌汁、はや 小魚 つけ焼、茄子香の物なり。これも今の世にては八百善の料理を食するが如き心地なり。飯後谷崎君の寓舎に至る。鉄道乗車券は谷崎君の手にて既に訳もなく購ひ置かれたるを見る。雑談する中[うち]汽車の時刻迫り来る。再会を約し、送られて共に裏道を歩み停車場に至り、午前十一時二十分発の車に乗る。新見の駅に至る間隧道[すいどう]多し。駅ごとに応召の兵卒と見送人小学校生徒の列をなすを見る。されど車中甚しく雑沓せず。涼風窓より吹入り炎暑来路に比すれば遥に忍びやすし。新見駅にて乗替をなし、出発の際谷崎君夫人の贈られし弁当を食す。白米のむすびに昆布佃煮及牛肉を添へたり。欣喜措く能はず。食後うとうとと居眠りする中[うち]山間の小駅幾個所を過ぎ、早くも西総社また倉敷の停車場をも後にしたり。農家の庭に夾竹桃の花さき稲田の間に蓮花の開くを見る。午後二時過岡山の駅に安着す。焼跡の町の水道にて顔を洗ひ汗を拭ひ、休み休み三門の寓舎にかへる。S君夫婦。今日正午ラヂオの放送、日米戦争突然停止せし由を公表したりと言ふ。あたかも好し、日暮染物屋の婆、鶏肉葡萄酒を持来る。休戦の祝宴を張り皆々酔うて寝に就きぬ。
〔欄外墨書〕正午戦争停止。