(巻十二)燕の子ひとの頭を数へをり(植苗子葉)

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10月4日火曜日

二十余年前にマニラのネオンのジャングルを共にさ迷った戦友から連絡を頂いた。
氏の栄逹を知り、過日秘書の方に「名刺だけでもお届けに上がりたい。」と託けておいたところ、氏から直々にお電話をいただき、呑むことになった。嬉しいことにサンミゲルを飲める店を手配しておいたとのことである。

裏表なくて涼しき団扇哉(此川)

今では国家財政など日本より健全のようで強かな外交を展開しているが、そのころのマニラはまだ停電・断水も頻発し貧しい人達は本当に貧しい生活をしていた。
であったから、当時の一万円はゴルフ場でも夜のブルゴス街でも少なくとも五万円以上の使いでがあった。
ブルゴス街はマカティ市の北の外れにある歓楽街で主に欧米人を相手にするバーやグラブが密集していた。欧米人は小銭にうるさいので会計がはっきりしている。その頃ゴーゴーバーのサンミゲルビールは30ペソくらいで女の子におごれば60ペソであった。払いはその場のキャシュである。ご同胞は言葉が楽なカラオケ屋を好むのでブルゴス街にはあまり出没しない、というのも足がこちらに向いた理由である。
さて、氏はご家族帯同であったので夜間活動がままならず、出張者が来ると“公務”接待であると理由をつけて大いに楽しんでおられた。私もその程度に干しておいた方が楽しめるし、こちらも楽しんでいるのが出張者の方にも無理なく伝わり、自然に男同士意気投合し、良い結果につながったようだ。

飲めるだけのめたるころのおでんかな(久保田万太郎)

加えて申せば、頻繁に通えば情にほだされ絡め捕られる。そんな話は結構あった。

紫蘇しげるなかを女のはかりごと(桂信子)


興が乗ったので、更に続けよう。何しろこのブログは私の墓標なのだから。

石積みの墓標と思いブログ打つ千個となりて遺影添えけり(潤)

三年間いたが、滞在型のホテルで通した。単身で来ていて一軒借りたり広い部屋を占拠し日本食のできるメイドを付けるというのが一般的であったが、人を使うなどという面倒くさいことは避けた。
夕飯は専ら韓国料理屋で頂いた。日本料理店もあるが、高いし、最高級なところ、“ふるさと”など、を別にすれば何かが違うのである。二千円近い天ぷらうどんもあったが、一時帰国のときに先ず食べた駅蕎麦の方が旨いと思ったものである。
韓国料理店ではユッケで一杯やってチゲで飯を食うのが基本パターンで小鉢で変化をつけていた。ユッケに生たまごをかけてパクついていたが、ちょっと怖いことをしていたのかもしれない。(日本料理が怪しかったのと同じで本当の韓国料理でなかったのだろう。)
ラーメンと餃子はよく食べていた。ちゃんこ鍋屋があってそこにも時々行ったが専ら鯵の叩きを食べていた。鯵は安いのであるが、鯖は高い。鯖は南では捕れないのだろうか?
着るものには金が掛からない。ケチをつけるならパンツのゴム紐がすぐに弛むくらいのことだ。
散髪はペニンシュラの地下にした。理容師と言うのはお釜の職業のようであった。

何事につけ、金とコネがものをいう社会であった(実はこの国も同じなのであろう。ただその圏内に入っていないだけなのでしょう。)。
現地人のコネで陸軍のゴルフ場の準メンバーに潜り込んだが、ちょっとした謝礼金だけであった。(女の子の10杯分くらいだったと思います。)グリーンフィーは日曜日でも一杯分でキャディが1ラウンド三杯分くらいであった。
一人で行って混ぜてもらうのであるが、キャディを通じて私の一杯分くらいをスターターに時々捩じ込んでおけば待つことなく大ジャンプで組み合わせくれるし、良きメンバーのパーティーに入れてくれた。

機会があって気が向けばこの続きを語りたい。

自分史に粉飾少し蔦紅葉(高橋和彌)