「マジメも休み休み言えー河合隼雄」新潮文庫“こころの処方箋”から

うっかり冗談を言うと、「冗談も休み休み言え」と叱られることがある。冗談もいいが、そうのべつまくなしに言うべきでない、ということだろう。これと同様に、「マジメも休み休み言え」と言えそうな気がする。
ともかくマジメだが、何となく人に嫌われたり、うとんじられたりする人がある。言うこともすることもマジメで、その人の話を聞いていると、「なるほどもっとも至極」というわけで反論の余地がない。もっともだと思いつつ、しかし、心のなかで妙な反撥心が湧いてきたり、不愉快になったりしてくる。そこで何とか言ってみたいと思うものの、相手の方が何しろマジメで、非の打ちどころがないのだから、それに従うことになる。ただ、そのときに残った心のもやもやが溜ってくるためもあってか、そのマジメな人を何となくうとんじてしまう。ここでその人が手のつけられないマジメ人間のときは、何だか自分の評判が悪そうだから、ガンバラなくつはと一層マジメになるので、悪循環が生じてしまう。
欧米人、特にアメリカ人とつき合うと、冗談が好きなことに驚いてしまう。また逆に、彼らから言わせると、日本人はユーモアのセンスがない、ということで評判が悪い。今後、日本人も国際性をそなえていかねばならないが、この点についても考えてみる必要があるようだ。
以前、ウォーター・ゲート事件の国会での証人喚問の際の実況中継を見ていて驚いたことがある。盗聴をしていた人間に対して、電話の受話器がその場に持ちこまれ、それを使って実際にどのようにしていたかをやれ、と命令される。その人はやおら立って受話器のところに行き、実演する前に、真剣な顔をして議員たちに向かい、「まさか、これは盗聴されてないのでしょうね」とやって、一同の爆笑を誘うのである。
もしこれと同様のことを日本の国会でやればどんなことになるだろう。「冗談も休み休み言え」どころか、全国民から厳しい非難を浴びることになるだろう。「マジメにやれ」の大合唱が聞こえてくるに違いない。それでは、ウォーター・ゲート事件のアメリカにおける究明と、日本における、たとえばリクルート事件の究明を比較してみた場合、どちらが本当に真剣にやったのかという点になると、どうなってくるだろう。このような比較はそれほど簡単には出来ぬ点があるので速断はできないにしろ、冗談まじりのアメリカの方が究明が手ぬるいなどとは決して言えないことには、誰でも同意することであろう。
この点についてもう少し突っ込んで考えてみると、次のように言えるだろう。
アメリカでは烈しく相手を攻撃する代りに、相手の言い分も十分に聞こうとする態度がある。それに対して、日本的マジメは、マジメの側が正しいと決まりきっていて、悪い方はただあやまるしかない。マジメな人は住んでいる世界を狭く限定して、そのなかでマジメをやっているので、相手の世界にまで心を開いて対話してゆく余裕がないのである。これに対して、欧米人の場合は、自分がどんなに正しいと信じていても、相手の言い分を十分に聞かねばならないという態度がある。ぶつかりは烈しくなるが相手に対して心をひらくだけの余裕があり、余裕のなかからユーモアが生まれてくるのだ。
マジメな人は自分の限定した世界のなかでは、絶対にマジメなので、確かにそれ以上のことを考える必要もないし、反省する必要もない。マジメな人の無反省さは、鈍感や傲慢にさえ通じるところがある。自分の限定している世界を開いて他と通じること、自分の思いがけない世界が存在するのを認めること、これが怖くて仕方がないので、笑いのない世界に閉じこもる。笑いというものは、常に「開く」ことに通じるものである。
「マジメも休み休み言え」、というときの「休み」が大切なのである。休んでいる間に人間は何か他のことを考える。休みという余裕が、一本筋の自分の生き方以外に多くの他の筋があることを見せてくれるのである。こんなことを考えてくると、日本人がユーモア感覚に欠けると批判されることと、日本人が休みを取りたがらないということが深く関連していることがわかってくる。「マジメ人間」の日本人が、休みなしにマジメにやるので、国際社会で嫌われものになり勝ちなのである。
日本人もこんな点を反省して、この頃では大分休みをとるようになった。官公庁の土曜休日も決まったことだし、これは嬉しいことである。ただ心配なのは、「マジメに休みをとれ」などということになって、せっかくの休日を「有意義」に過ごそうなどと考えすぎ、休日は増えたがマジメさは変わらない、などということになりそうに思えることである。とにかく、マジメは休み休みにして頂きたい。