1/2「男の作法巻末解説ー常磐新平」新潮文庫“男の作法ー池波正太郎”から

『男の作法』を、私はもっと若いころに読みたかったと思う。学生のころに、あるいは就職してまもないころに、読んでおきたかった。池波先生のエッセーは、読むと得をするのである。もっとも、先生は私たちに得をさせるつもりでエッセーを書かれるのではないと思う。
たとえば、刺身の食べ方。先生はおっしゃっている。
「お刺身を食べるときに、たいていの人はわさびを取ってお醤油で溶いちゃうだろう。あれはつまらないよ。
刺身の上にわさびをちょっと乗せて、それにお醤油をちょっとつけてたべればいいんだ。そうしないとわさびの香りが抜けちゃう。醤油も濁って新鮮でなくなるしね。」
恥を告白すれば、私は『男の作法』を読んで、はじめてお刺身の食べ方を知ったのである。それまでは、わさびを醤油に溶いて食べていた。中年になって、こういう初歩的なことを知るのは、いかにも馬齢をかさねてきたようで、ほんとうに恥かしい話であるが、しかし、一生知らないで、醤油にわさびを溶いて食べるよりはいい。それに、お刺身にわさびをちょっぴり乗せていただくのは、見た眼にもきれいではないだろうか。「食卓の情景」としても美しい。これは、池波先生の食卓の美学から出たのだと私は想像する。
右の引用でおわかりのように、『男の作法』は池波先生の「語りおろし」である。先生の「若い友人」佐藤隆介氏のさまざまな質問に答えられたものが、きわめて具体的に男の生き方を教えるこの一冊になった。佐藤さんは先生を最もよく知る人であり、先生の文庫の解説でおなじみである。
先生のお話は、食べものからはじまっていて、だから、私などにはたいへん興味がある。しかし、食べものといっても、『食卓の情景』や『散歩のときに何か食べたくなって』とはちょっと趣を異にして、食卓の礼儀作法を語っておられる。
西洋料理の食べ方は知っているが、鮨やてんぷらの食べ方を心得ている人は意外に少ない。そのように決めつけてはいけないのかもしれないが、刺身についても、私と同じような食べ方をしている、同じ年齢の人たちが意外に多いのである。
鮨屋で、客が飯のことをシャリと言ったり、生姜のことをガリと言ったりすることを、池波先生は言下に否定されている。シャリとかオテモト(箸)とかムラサキ(醤油)とかアガリ(お茶)とか、これはみな鮨屋仲間の隠語なのである。なにもお客が使うことはない。普通に「お茶をください」と言えば、それでいいと先生は明快におっしゃっている。
鮨屋に行っていやな顔をされるというのは、握った鮨を前に置いたまま長々とビールか何かを飲みながらしゃべって」というのは、たしかに、これはいやな風景であるが、それでも、先生は一歩ゆずって、「鮨というのは家へのみやげに持って帰ることも出来るほどのものだし、ちょっと置いといたほうがいいという人もいるわけだから、それほどあわてて食べなくてもいい」と言われる。そして、昔のことを話されて、「鮨屋でもって酒を長々と飲むということはあんまりなかったんだ」
鮨屋というのはどれだけ勘定をとられるかわからないという不安があるけれど、先生はご自分の経験から話される。椅子とテーブルのない店だったら、「勘定は高いものと覚悟してなきゃいけない」し、「ひょいとガラス戸から見て椅子とテーブルがあれば、そのテーブルの前に.....坐って、『一人前たのむ』」と言うか、あるいは「上等を一人前」というようにたのむ。しかも、はじめて行く店では一番隅のほうへ坐ったほうがいいのである。
これはつまり、簡単にいえば、知ったかぶりをしてはいけない、通ぶってはいけないということだろう。池波先生はダンディーであるが、ここにおいて、ダンディーとは、知ったかぶり、通ぶることを避けることだと納得するのである。
「てんぷら屋に行くときは腹をすかして行って、親の敵にでも会ったように揚げるそばからかぶりつくようにして食べていかなきゃ、てんぷら屋のおやじは喜ばないんだよ」
これは、通ぶっていないから言えることではあるまいか。「親の敵にでも会ったように」というのは、てんぷらの場合、たしかにそうだという気がする。それでこそ、てんぷらがおいしく食べられる。こういうふうに、ずばりとおっしゃっるところが、『男の作法』にはたくさんあって、痛快な感じがする。抽象的な作法は、私たちはよく知っているけれども、具体的なことについては理解していないので、はっきりと言われると、胸のすく思いがする。