「12471 - 前田司郎」」ベスト・エッセイ2012 から

「12471 - 前田司郎」」ベスト・エッセイ2012 から

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僕は34歳で、一応90歳くらいまで生きる予定なのでそうするとあと56年生きられる。56年がいまいちピンとこないから計算すると、20440日だ。まあ、2万日と思って良い。これはまあだいたい2万日以内に死ぬということだ。
演劇なんかをしていると、戯曲を書くのに30日、稽古を30日、本番を14日くらい、計74日使う。今はそういうことを無造作にやっているが、2万円しか持っていないくせに74円の物を簡単にぽんぽん買っているに等しい。
俺は100万円ぐらい持っているつもりでいるから、74円なんて屁みたいなものだが、実際は2万円しかないのだ。
2万円をもっと大事に使わないとやばい。しかも明日にもいきなり2万円全部没収されちゃう可能性もあるのだ。
一日1円が確実に消費されていくわけだから「寝て過ごしちゃった、えへ」みたいなことはもう許されない。ああ、あの寝て過ごしちゃった分の日数を取り返せたら!
いったいどうやって過ごしたら一番、無駄使いじゃないのだろうと考える。
それはやっぱり一日一日を充実させることだろう。充実した一日をあと2万日繰り返せば、充実した一生を送ったと言えようか。
では一体充実とは何ぞや?そもそも俺は今まで消費してきた12471日(2011年6月13日現在)の間で、どれくらいを充実して過ごしたのだろうか。
一日が丸々充実していたことは無いだろう。これまでの人生で一番充実していた日はいつだったかと思い出そうとしてもなかなかこれと言って思い浮かばない。
多分、初めてデートした日とか、いや、初めてのデートは充実というか苦行だったかも知れないから、大人になってデートを楽しむ余裕が出てきた頃のデートかというと、デートしている時は確かに楽しいけど、結構気を使うし、この先この人とどうにかなるべきか、否かとか、駆け引きもあるし、気の休まる時がないようにも思える。
そうするとデートしている時よりも、デートを控えた前日とかそういう時の方が充実しているかも知れないが、さすがにデート前日にもうそんなにウキウキしないお年頃に入っているし、「デートの前日が一番充実していたなあ」という実感も無い。
こうして文章を書いている時は確かに、多少の充実感がある。何かを作りだしている感が、錯覚かも知れないけど、あるから、それを充実と読んでもいいかも知れない。ただ、それも書いている間のほんの一瞬だ。
やっぱり一日が丸々充実するってことは難しいんじゃないだろうか。もっと噛み砕いて考えると、楽しかったのはいつか?という問いが浮かぶ。
これは断然友達と旅行に行っている間だ。その間は、明日何して遊ぼう?明日何を食べよう?ということだけ考えてればいいわけだから、これほど楽しいことは無い。それをして充実と呼んでも良いだろう。
だから、あとの2万日をずっと友達と旅し続けられれば充実した一生を送ったことになる。な、訳が無い。
多分1ヶ月を過ぎた辺りで、友達が友達じゃなくなり、どこかしら家族的なものに変って行き、甘えが生まれ、ほのかな憎しみを抱き始め、「一人で居たい」とか言い出す奴が出てきたり、ケンカがおき、それが慢性化したりして、全然楽しくなくなってくる。旅は非日常だから楽しいのだ。ハレの日が恒常化すればそれはケになるだろう。
残りの2万日をどう過ごせばいいのか。
ここで、考え方を変えてみる。2万日は今は無い、これから先の話である。そして12471日も今は無い、これはもう終ったことである。
どちらも無いなら、未来を充実させなくても、過去を充実させればいいのではないか?僕たちは記憶を改竄できるのだ。好きなように変えることが出来る。それは言い過ぎか。好きなように変えるのには抵抗がある。変な良心のようなものがはたらき、出来るだけ正確な記憶を留めようと思ってしまう。
そんなものになんの価値があるわけ?
せっかく曖昧な記憶装置しか持っていないのだから、それを最大限利用して、どんどん自らの記憶を改竄し、自分の都合のいいように書き換えてしまえば良いじゃないか。
俺の12471日は俺の物だ。
めちゃくちゃ充実した12471日だったと記憶に留めればいいのだ。ただそれを邪魔するのは客観的な事実だ。しかし、この私的な世界に真の客観性など存在しないはずだ。客観的な事実も、私の主観を通してしか認識できないのだから、そんなもの簡単に歪曲できる。世界の歴史を見よ。それぞれの文化が、それぞれの文化に都合の良い歴史を持っているじゃないか(僕は良く知らないけど、新聞によく書いてある)。
ただ、充実とか幸せとかの尺度に、客観的なものが使われることが多いのが困るんだよな。例えばお金とかさ、地位とかさ、本当は超貧乏で、超無名で、誰からも愛されなくても、その人本人の力で、自分は幸せだったと信じ込むことも可能なはずだ。俺はその能力を磨けばいいのだ。