「安心して、死ぬために(抜粋1) - 矢作直樹」扶桑社 から

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「安心して、死ぬために(抜粋1) - 矢作直樹」扶桑社 から

 

ひとり暮らしを十分たのしむ

私は現役のとき、大学の研究棟に寝泊まりしていました。この話をすると、みなさんに「家へ帰れないほど、忙しかったのですね」と同情されますが、じつは自宅を持っていなかったのです。退官間際に、なんとか住[す]み処[か]を見つけて、今はそこでひとりで暮らしています。
研究室の扉を閉めればひとりでしたが、やはりゆっくりとくつろぐことはできませんでした。住み所が職場なのは便利なのですが、自分がいつでも病院の機能の一部という感覚でした。
ですから今は、プライベートの時間を満喫しています。また、空間を自由に使うことも楽しみの一つです。好きなところに好きなものを置いたり、花を育ててみたり......。それは退官してとてもよかったと思うことの一つです。みなさんは自分の家や部屋を自由に使えるのは当たりまえと思っているかもしれませんが、じつはとても贅沢なことなのです。
そういったことに楽しみを見いだせば、独居の方が自由度が増すと思います。だれに気兼ねすることなく、自分の時間と空間を自分の判断で使えるからです。
私も年齢は63歳ですし、統計上は独居世帯のひとりかもしれません。家族がいなくて寂しいでしょうと思われるかもしれませんが、日々楽しく過ごしているので、寂しいという感覚を持ったことはありません。
もう少しお話しすると、私はひとりで山の散歩や町のジョギングを楽しみます。この二つに共通していることは、話し相手は人間ではなく、自分の身体だということです。
「今日は少し足が重いね」「今日は暑さでいつもより汗がでるなあ」「リュックの重さで肩が張っているね」などです。
友人と出かける楽しみもありますが、ひとりのときには自分に集中できます。とくに、自然の中に身を置くと、五感を磨くことに役立ちます。山奥に行かなくても、ちょっとした公園でもいいのです。ひとりで出かけてみてはいかがでしょうか?
「公園へひとりで行くと家族連れやカップルがいっぱいで、かえってみじめな気持ちになる」という人もいるかもしれませんが、そんなときには人間観察という楽しみがあります。ひとりということは目も耳も鼻もフル活動で、いろいろなものを吸収できるのです。
また、家の中にいるときは読書を楽しんでいます。最近はネット記事を読む人も多いと思いますが、私は紙媒体の本が好きです。これも五感を使うことができるからです。目だけでなく、紙の質感、本の匂い、すべてを使って、読書を楽しみます。眠たくなったら、うとうとするのもひとり暮らしの特権です。罪悪感もいりません。
私の中学時代の理科の先生が、夫に先立たれて、伊豆のほうでひとり暮らしをされています。もう80代半ばですが、とてもハツラツとされています。重度の花粉症で、体調は万全ではありませんが、自分のできる範囲をわきまえていらっしゃいます。数年前に訪ねたときに、部屋も大変きちっと整理され、暮らしやすいように工夫されていました。
私はその先生の姿は多くの日本人にとって、よいお手本になるのではないかな、と思いました。日々を丁寧に生きているのです。もう、それだけで十分ではないでしょうか。
その先生から「矢作君は休み時間はひとりで遊んでいましたね」と言われ、自分の記憶をたどりました。私はあまり覚えていなかったのですが、「ひとりでアリの観察をしていたのよ。なにを見ているの?と聞いたら、アリの生態を事細かに説明したのが印象的で覚えているの」と言われてしまいました。
私は、子どものときからひとりの時間を漫喫していたようです。

 

目の前のことに夢中になる

心配せずにあの世へいくためには、ちょっとした準備体操が必要です。それは、毎日を丁寧に生き、毎日を楽しむことです。もちろん、人生は楽しいことばかりではないかもしれません。でも、小さい子どもが目の前のことに夢中になっている姿は私たちが理想とする姿です。そんな姿が「中今[なかいま]を生きる」ということです。
私がさまざまな本で述べてきたことや、講演会でお話ししていることは「中今を生きる」ということです。それでも、読者や講演会にいらさたお客様から、さまざまな悩みを相談されます。「中今」を生きていたら、なにも問題がないのに、なぜ悩みがでてくるのだろう、と不思議になります。
これは嫌味で言っているのではなく、みなさんがどこでつまずいて悩んでいるのか、私には本当にわからなかったのです。
悩みは身体のこと、仕事のこと、お金のこと、家族のこと、友人関係のことさまざまですが、共通点があることがわかりました。それは、みなさんが相対感わ持っていることです。
○○さんと比べて、平均と比べて、昔と比べてなどです。「中今を生きる」と他と比べることがなくなりますので、自分を生きているかをチェックする一つの目安になると思います。
私は学生時代、自活していたので、建設作業ねアルバイトをよくしていました。不慣れだった仕事がだんだん慣れて上手に早くできたり、道路工事に貢献できたりすることに喜びを感じていました。お金もたくさんいただけて、身体も鍛えられたので、とてもありがたかったのです。
ところが、ある日、プロの職人さんから「兄[にい]ちゃん、ずいぶん一生懸命やっているけど、いくらもらっているんだ?」と聞かれたので、正直に答えました。そうしたら、それが彼らの3分の1だということがわかったのです。聞いたほうは「え!」と言って驚いていましたが、私は「ああそうなんだ。それは仕組みだから仕方ない」と思ってさして驚かなかったことを覚えています。
ですから、その話を聞いた前後で、働きぶりを変えることはありませんでした。もし、ここに相対感を持ちこむとどうなるでしょう。「同じ仕事で、給料が違うのは不公平だ」「○○さんは○○円もらっていて、ずるい」「3分の2もピンハネする紹介業者は不当だ」と不満しかでてきません。
もちろん、どう思ってもその人の自由ですが、なにも比べずに自分の仕事だけに集中していれば、不満はでてきません。心が穏やかに過ごせるということは、それだけで幸せです。
もし、なにかの分野で一番を目指していたとしても、一番になれなかったら、どこかに収まることをよしとしなければいけません。一番が勝ちで、それ以外は負けということではありません。役割の違いがあるだけです。それで、得られる収入が違っても、比べなければ不満はでません。
それでも、どうしても比べることが好きな人には「最低の条件と比べる」ことをお勧めします。自分自身の大変なときでもいいですし、よその国でもいいでしょう。今でも、食べるものがなかったりする国はいくらでもあります。それに比べたら、幸せと思いませんか?
なによりも、あの世に帰るときにはこの世の地位や財産はまったく関係ありません。手荷物なしで、魂だけが帰ります。そして「ただいま、たくさん遊んだから、もう帰る」と子どものような気持ちで、帰りたいですね。