「能面漫話 - 野村万蔵」日本の名随筆40 顔 から

 

「能面漫話 - 野村万蔵」日本の名随筆40 顔 から

 

余白の表情

 

能面が、能の理念に従って創作されたものであることはいうまでもないが、当時の作者がよく能の演技精神を把握して仮面芸術に新境地をひらいた偉業に対し、われわれは大きくその功をたたえなければならない。
かつてある大画伯が仏像などに引例して、能の女面の口が半開になっているのを難じたことがあったが、しかしそれは実用に供される能面の特殊性を無視した批判であり、一般の美術品と同視したところに無理があり、私の反論がある。
半開の口は“言・黙”両面の演技を兼帯し、刹那々々の感情表現に大きな役割をつとめているのみならず、発声や音響上にも重要な関係をもっているのである。
また俗に、無表情な人を「能面のようだ」といい、能面はまるで無表情の代名詞のようになっているが、複雑な能面の表情はさほど簡単にいい切れるものではない。従って一部の人が説く「中間表情論」なども全面的には首肯しかねる。
元来露骨を嫌う能面の表情は非常に控えめであるところから、ある種のものは一見無表情のようにも見えるが、実はそれぞれの面が個性や感情をもっているのであり、ぼかされている能面の表情はつまり演技に俟[ま]つ余白と考えたいのである。
要するに、半開の口はやがて「動」に転換するための準備の「姿勢」であって、その口許にはまさに物をいわんとする微動が感じられ、あるものは憂いを含み、またあるものは微笑を湛えるが如く、役者の演技と相俟っていわゆる神秘的に感情をあらわす一誘因にもなっているのである。
このように重要性をもっている口を、仮に結ばせてみたらばどうであろうか。
固く結んだ口の強さを生命とする「癋見」類は別として、動きの少ない女面の場合は、あるいは無表情と化すおそれがないともいえない。無表情な面は、死面同様であるから役者の演技がいかに巧みであっても活用することは至難であろう。そういう意味合いからも、芸の達人が良い面をかけることはいわば鬼に金棒であり、なおその上に良い相手と装束など適切に調和された場合にのみよい演技が期待されるのである。
元来の演者と面は不可分な関係をもつものであるから、従って役者が面を大切に扱うのも道理なのであり、昔から面にまつわるいろいろな挿話もそういう雰囲気のうちに発生しているのである。息子の舞台上での失策に対し鉄拳をふるう癖のあった大夫が、面をかけた時だけはそのような荒いことはしなかったという。「私の顔より面の方がよっぽど大事だとみえる」と、その息子である某氏の述懐を面白く聞いたことがある。
金剛家では夫人が身籠ると妊婦の心を和らげるためか、あるいはこの面のような美しい子を産むようにという意味か、伝来の「孫次郎」の面を奥さんの居間に掛けておく習慣があるそうだが、これなどは能面が家庭生活に結びついた珍しい話である。