「過ぎにしかた恋しきもの - 澁澤龍彦」河出書房新社 暮らしの文藝ー片づけたい から

 

「過ぎにしかた恋しきもの - 澁澤龍彦河出書房新社 暮らしの文藝ー片づけたい から

 

もしも私の手もとに、去年の夏のさかりを思い出させるドライフラワー、色あせた麦藁帽子、旅行記念の押し花、あるいは幼年時代に愛玩した縫いぐるみの動物の人形、すりきれたSPのレコード、青春の恋のかたみの手紙などといったものが、いくらかでも残っているならば、私はそれらの品々を眺めただけで、あたかもマルセル・プルーストがお菓子を紅茶に浸して食べようとした時のように、過去のイメージが眼前にぱっとひろがり、たちまち甘美な回想の波に運ばれてしまうことでもあろうに、残念ながら、私の手もとには、そういった情緒を誘い出す品々が一つとして残ってはいないのである。
原則として、思い出の品は手もとに残さないようにしている私であってみれば、それらの品に触発された、甘美な回想に浸るという一瞬の幸福もまた、私には無縁のものとならざるを得ないのだ。
もらった手紙はすべて、私が年末に焼き捨ててしまうのを常としているし、わが家の応接間のサイドボードの上の広口ガラス瓶に、女房の手で無雑作に突っ込まれたドライフラワーの束は、埃にまみれて茶色になり、一体何年前の花だったのか、それさえ確認するよすがもない始末である。同じサイドボードの上に並べてある大小とりどりの貝殻にしたところで、多くは友人知人にもらったものであるから、そこに思い出の情緒がまつわりつく余地はないと言ってよい。
それでは、私はドライフラワーや貝殻が好きではないのかと言うと、決してそんなことはない。好きでなければ、わざわざ部屋に飾ったりはしない。もちろんのことである。ただ、私が何より好きなのは、湿っぽい思い出やなつかしさの情緒に汚染されていない、からからに乾いた、硬質の物体なのである。その点から言えば、ドライフラワーや貝殻よりも、石やガラスの方がもっとよい。もっと私の趣味にぴったりする。ぴかぴかに磨きこまれた、純粋透明な無機質の物体には、じめじめした思い出などといった情緒は、さいわいなことに侵入してくる余地がないからである。
私は貝殻やガラスの球体を手にして、その形や色や触感を楽しみながら、過去の情緒ではなく、いつも現在の喜びを味わうのである。私は物体そのものを🤟いるので、物体にまつわる思い出の情緒なんかは、どうでもよいのである。清少納言さんには申しわけないが、私は、「過ぎしかた恋しきもの」を、なるべく自分の周囲から排除しようと、つねづね心がけているような種類の人間であるらしいのだ。

わが家の応接間の壁面や飾り棚には、古ぼけた埃だらけのドライフラワーや各種の貝殻のほかに、次のようなものを所狭きまでにごたごたと並べてある。すなわち、-
イタリアのデザイナー、エンツォ・マーリ氏の制作になる透明なプラスティック製の球体。中西夏之氏の制作になる巨大な卵のオブジェ。テヘラン旅行で買ってきた小さな卵形の大理石。フランドル派の絵に出てくるような凸面鏡。同じくイギリス製の凹面鏡。ガラスのプリズムや厚ぼったいレンズ。旧式の時計。青銅製の天文観測機[アストロラープ]。スペインの剣。模型の髑髏。鎌倉の海岸で拾った犬の頭蓋骨や魚の骨。チュイルリー公園で拾ったマロニエの実。バビロンの廃墟で拾った三千年前の煉瓦の破片。カブトガニ。クジラの牙。海胆[うに]の殻。菊目石[きくめいし]。etc.
これらのがらくたが、いずれもうっすらと埃をかぶって、古道具屋の店先のように、ごちゃごちゃ並んでいるのである。いずれも乾燥した硬質の物体で、私自身の過去の生活とはあまり関係がなく、とくに「過ぎにしかた」をしのばせるといったようなものではない。これらの収集は、いわば小さな自然博物館なのであって、個人的な思い出の品ではないのである。私はこれらの品々に囲まれつつ、私自身もまた、やがて死んで、からからね骨になる自然の子なのだということを、たえず意識するだけなのである。
言葉を変えれば、私にとって「過ぎにしかた恋しきもの」とは、単なる個人的な思い出ではなく、なにか抽象的な、永遠を感じさせるようなものでなければならないような気がするのだ。

たとえば、私は初夏の街を歩く。白い光がペーヴメントの路上にあふれ、どの店も、赤と白の布の日除けを店先に張り出している。私は、その光と影のちらちらする日除けを見ると、去年の夏とか、一昨年の夏とかいったような特定の夏ではなく、鏡のなかに無限につづく像にも似た、永遠につづく夏を感じないわけにはいかないのだ。
あるいはまた、夏の海辺の町を歩いていて、夾竹桃[きようちくとう]の桃色の花のいっぱい咲いた垣根を見る。夏の午後はしんとしていて、海辺の喧騒もここまでは届かない。すると、やはり夾竹桃の桃色の花は、永遠の夏のさなかに咲き誇っているらしく、私の記憶の鏡のなかに、小さな小さな像を結ぶまでに、無限に連続して映し出されるのである。思うに、これが永遠のノスタルジアというものではあるまいか。
夏の休暇で、汽車に乗って田舎へ行く。私が少年のころには、むろん、まだ煙を出して走る汽車というものがあって、少し長時間の旅行といえば、汽車に乗って行くものときまっていた。汽車の窓から見る田舎の駅には、黒く焼いた木の柵のかげに、カンナの花が燃えるように咲いていて、私たちの目を楽しませた。汽車がゆっくり走り出し、だんだん速力を増してくると、沿線の林の蝉しぐれが、切れ切れに耳に残るのである。すでに日は傾いて、走る汽車の影の地面に長く伸びているのが、車窓から見える。-こういう夏を、私は何十回何百回、現実と夢のなかで経験したことであろう。これも私にとっては、少年時代の夏であるとともに、また不特定な永遠の夏のイメージでもあるのだ。
ここで、ふと私の思うことは、もしかしたら清少納言も私と同じように、好んで季節や自然の風物のなかに、あの永遠のノスタルジアを感じていたのではあるまいか、ということである。いわゆる「ものはづけ」によって、虫だの花だの鳥だの草木だの名前を列挙し、これに短い詩のようなコメントをつけるといったエッセイの書き方は、私も大好きな方法であるし、それは、コレクションによって自然の博物館をつくろうという夢に、きわめて似ているような気がするからである。
そうだとすれば、私は前言を取り消して、「過ぎにしかた恋しきもの」を、私のコレクションの別名とすることにしてもよい。