(巻十二)筍のまことに無骨な荷が着きぬ(山田弘子)

8月7日日曜日

座椅子の背を45度くらいに倒し、気温33度の自室で昼寝をいたしました。少しだけ通っていく風と扇風機だけでしたが短い間うとうとし、独り言の多い自分と、その独り言の多いことを自己嫌悪しているなんともつまらない夢を見ました。

風のみちここぞと決めて三尺寝(岡野俊治)

目が覚めてから10分ほどして本が読めるくらいに頭も覚め、座椅子70度くらいまで立てて、昨日買った「永井荷風随筆集(上)(下)」の(上)“日和下駄 一名 東京散策記”の“序”と “第一 日和下駄”を読みました。

なぜ東京の市中を“てくてく”と蝙蝠傘を持ち日和下駄で歩くのかを先ずは述べている章です。

坂が好きことに名を持つ坂が好き東京の坂歩く雪晴れ(飯島幹也)

この章の半ば13頁の以下の一文は私の考える金が掛からなくて相手を必要としない趣味“俳句収集”にも通ずるところでもあり、筆写いたしました。
「その日その日を送るになりたけ世間へ顔を出さず金を使わず相手を要せず自分一人で勝手に呑気にくらす方法をと色々考案した結果の一ツが市中のぶらぶら歩きとなったのである。」
荷風はその前に11頁で、「今日東京市中の散歩は私の身に取っては生れてから今日に至る過去の生涯に対する追憶の道を辿るに外ならない。」と述べられております。


荷風の文章は江戸芸術論で一応読みました。また、谷崎潤一郎“随筆集“で紹介されていた荷風の書簡も見ておりますが、書簡に比べれば句読点がはるかに多く、芸術論に比べれば内容は一般的なようです。

慌てて読む必要もありませんし、一回読んでそれきりと言うつもりもごさいません。時折開いて、此処に独り言をコチコチと打たせていただきます。

さみだるる他なし漢の独言癖(松下けん)