丸谷文章読本冒頭

昭和九年、谷崎潤一郎が『文章読本』をあらはしてのち、同じ題、あるいはよく似た題の本を三人の小説家が書いた。昭和二十五年の川端康成、昭和三十四年の三島由紀夫、昭和五十年の中村真一郎である。そして今またわたしが、『文章読本』なるものに取りかからうとする。
すなはちわづか半世紀にも満たないうちに、文章の書き方、味はひ方の手引が五人の小説家によつて作られるわけだが、考えてみればこれはずいぶんと異様な文化史的現象ではないか。こんなことは明治大正にはなかつた。維新以前にはなほさらなかつた。とすれば、これら一連の『文章読本』は昭和文学の一特徴と見て差支へないものなのである。後世の文学史家は案外この五十年間を要約して、小説家が文章入門をものするかたはら小説を書いた時代とするかもしれない。
しかし、この一時期、なぜこんなに多くの『文章読本』が書かれたのだろうか。それも詩人や劇作家や批評家によつてではなく小説家よつて、すくなくとも小説を表藝とする文学者によつて、書かれたのだろうか。これを逆に言へば、わたしの知る限り代表的な詩人や劇作家や批評家がこの手の仕事をしなかたつたのはなぜだろうか。たとへば三好達治ならさういふ話にはきつと乗気になつたはずなのに、誰もそんな企劃を立てなかつたのはどういふわけなのか。こんなことを言ふと突飛な質問のやうに見えるかもしれないが、この突飛さにはかなりの意味がある。それは単に取上げるにふさはしい話題、答へ甲斐のある問、解くに価する謎であるだけではなく、新しい『文章読本』の最上の出だしとなるにちがひない。
だが、そのへんのところをじつくりと考えるには、谷崎の著書だけに話をしぼるほうが具合がいいし、さうするのはあながち不当な処置ではなからう。それは第一に最初の『文章読本』としてこの種の述作の型を定めた。第二に、川端、三島、中村三家の本が、もちろんそれぞれの美質はあるものの、全体としてはいずれもさほどの充実を誇ることができないのに、これは格段に力のこもつた傑作なのである。ここで人は、たかが入門書に傑作とは大げさな、などと笑つてはいけない。たとへば荻生徂徠の『經子史要覽』のやうに、世にはときとしてさう形容するしかない手ほどきの本があるものなのだ。
もつとも、わたしは谷崎の『文章讀本』の論旨にことごとく同意するわけではない。といふのは、巨匠の藝談、初心者に与へる適切な忠告がたつぷりと語られる合間に、ふと、現役の藝術家の危険な願望、無謀な野心が打明けられ、いや、それくらいならまあいいが、困つたことに、長い歳月にわたる読書と制作の生活がもたらした高い見識と鬱然たる学殖のあひだに、とつぜん、浅見ないし無思慮、あるいはすくなくとも用語の誤りが置かれるからだ。もちろん文章の達人だから、うつかりしていたのでは何となく読みすごし、さらには、さすがに大したものだなどと感心さへするやうに上手に書いてあるけれど、腰をすえて仔細に読み進むとき、人はこの名著に含まれている錯誤に驚くことにならう。
が、それにもかかはらず谷崎の『文章讀本』は依然として偉大である。あるいは、この薄い本の威容は区々たる意見の当否によるのではない。さうではなくて、むしろ、彼ほどの大才、彼ほどの教養と思考力の持主が初学案内の書にときとして浅見と謬想とを書きつけざるを得ないくらい切迫した状況で現代日本語といふ課題に全面的に立ち向つたこと、その壮大な悲劇性こそ『文章讀本』の威厳と魅惑の最大の理由であつた。このとき彼は安全な入門書をあらはしたのではなく、危険な宣言を発表したのである。