「独り酒 船山馨」 中公文庫 “私の酒” から

北のほうの寒い国に育った者には、どうも酒飲みが多いようだ。私は札幌の生れだが、酒は父祖伝来である。
煙草は律儀に二十歳まで喫わなかったが、酒は十七くらいからたしなんだ。義父が日露戦争従軍記者という古いジャーナリストで自由主義的な人間だったので、中学生のころから芸妓を呼ぶ酒席へ連れていってくれたりしたくらいなので、酒も度をすごさぬかぎりやかましくは云わなかったからである。
おかげで、私は青年期になっても、無知や好奇心で酒や女の失敗をすることはなかった。何事も道学者流に怖れて避けるよりも、知って覚えるべきで、その点、私はいまも義父を徳としている。
ところが近年になって、かえって酒のうえの失敗が多くなってきたのは、われながら慚愧というほかはない。自分のしゃべったことや、したことが、醒めてから一向にわからないなどということは、三十代の頃まではなかったことである。
つまり、これは私が自分の肉体的な条件の変化に気づいていないことによるのだろうと思う。四十代に入ると、人間の体は急激に衰えるものだというから、三十代や二十代のときのつもりで、若い飲み方をしていては、ムリが出来てくるのは当り前なのだが、それがなかなか、四十になったから今年から酒量に注意するというようにも、人の心ははたらかないものである。しかし、四十の声を聴いたら、酒の飲み方も老熟すべきであろう。いい年をして、翌朝自己嫌悪にみじめな思いをしたりするのは、どうにもやりきれた話ではない。
そんな事情もあって、この頃、私は独り酒のたのしみを覚えてきた。もともと、私の酒は女気の要る酒ではないが、飲み相手はあったほうがよかった。いまでも、気の合った飲み相手と酌みかわす酒は好ましいが、それよりも、夜半、暗い庭を眺めながら独りで飲む酒の醍醐味に魅かれる。
酒の飲み方もいろいろあって、三十代の初め頃までは、私も量だけを誇ったものである。何升飲んだなどということを、酒飲みの本領のように思いちがえていたのだから、若気の至りである。そのつぎには、量とともに崩れぬことを、ひそかな誇りにした頃もある。
いくら飲んでも自若として動じないということは、それ自体たいへん結構なことであるし、酒家はそうなくてはならぬところなのだが、しかし、それが意識的で、酒を征服するところを見せてやろうというようなテラった気持や、何升まで平然としていられるかというような、酒とたたかっている自意識のはたらきからくるのでは、やはり酒徒として拙ない気がする。
ほんとうの酒徒の心というものは、酒をアルコール含有量何パーセントの溶体というような即物的な考え方でとらえることから昇華して、擬人的になっているものらしい。ミスター酒でも、酒氏でも酒翁でもいいが、ともかく彼と二人だけで対座して、しずかに語りあうという趣きが、独り酒のたのしみには在るということが、私にもこのごろになってわかってきた。
そうなってくると、やはり自分の好みの酒を、自分の飲み加減にあたためたやつを、気に入った焼きの盃で含むのがよく、自然、このごろは、私も日本酒のことが多い。日本酒の場合は、若いときからのというより、義父からの継承で三十年近くも“沢の鶴”にきまっていて、いまもそれは変らない。しかし、ほんとうは私は日本酒よりもビール党なのである。そこで、ビールで、独り酒の、人生の哀れと美しさをかみしめながら、静かに独り酔う、あの情緒と境地を味わえないものであろうかと、時々思ったりする。おそらく、ビールそのものより、ビール瓶というやつが、そういう深い情緒には適さないのだろう。
私は四季を通してビールを愛用しているが、ビールの味というものも、なにかわびしく、いいものであるから、コゲ茶色のガラスビンなどというものにこだわらなければ、人生を舌で感ずることに於て、日本酒に劣るものではない。
ことに、私などは札幌の生れなので、いまでもビールといえばサッポロの後身のニッポンビールだが、あれには遠い故郷の味がある。楡の古木やアカシアの花や、そして、着物でスキーをはいて、トマトのように赤い頬をして、街なかのスロープを滑ったり転んだりしていた、私自身の少年時代の、消えやらぬ夢の匂いがただよっている。
独りビールというのはおかしな言葉だが、私などには、それも独り酒とおなしように、このごろは心にしみ入る思いである。