2/2「火に追われてー岡本綺堂」岩波文庫“日本近代随筆選ー2”から

2/2「火に追われてー岡本綺堂岩波文庫“日本近代随筆選ー2”から
 

そのうちに見舞の人たちがだんだんに駆けつけて来てくれた。その人たちの口から神田方面の焼けていることも聞いた。銀座通りの焼けていることも聞いた。警視庁が燃えあがって、その火先が今や帝劇を襲おうとしていることも聞いた。
「しかしここらは無難で仕合せでした。殆ど被害がないと云ってもいいくらいです。」と、どの人も云った。まったくわたしの附近では、家根瓦をふるい落された家があるくらいのことで、著るしい損害はないらしかった。わたしの家でも眼に立つほどの被害は見出されなかった。番町方面の煙はまだ消えなかったが、そのあいだに相当の距離があるのと、こっちが風上に位しているのとで、誰も左ほどの危険を感じていなかった。それでもこの場合、個々に分れて いるのは心さびしいので、近所の人たちは私の門前を中心として、椅子や床几や花むしろ一つところに寄せあつめた。ある家からは茶やビスケットを持出して来た。ビールやサイダーの壜(びん)を運び出すのもあった。わたしの家からも梨を持出した。一種の路上茶話会がここに開かれて、諸家の見舞人が続々もたらしてくれる各種の報告に耳をかたむけていた。そのあいだにも大地の震動は幾たびか繰返された。わたしは花むしろのうえに坐って、地震加藤の舞台を考えたりしていた。
こうしているうちに、日はまったく暮れ切って、電灯のつかない町は暗くなった。あたりがだんだん暗くなるに連れて、一種の不安と恐怖とがめいめいの胸を強く圧して来た。各方面の夜の空が真紅にあぶられているのが鮮かにみえて、ときどきに凄まじい爆音もきこえた。南は赤坂から芝の方面、東は下町方面、北は番町方面、それからそれへとつづいて唯一面にあかく焼けていた。震動がようやく衰えてくると反対に、火の手はだんだんに燃えひろがってゆくらしく、わずかに剰すところは西口の四谷方面だけで、私たちの三方は猛火に囲まれているのである。茶話会の群のうちから若い人は一人起ち、ふたり起って、番町方面の状況を偵察に出かけた。しかしどの報告も火先が東にむかっているから、南の方の元園町方面はおそらく安全であろうということに一致していたので、どこの家でも避難の準備に取りかかろうとはしなかった。
最後に見舞に来てくれたのは演芸画報社の市村君で、その住居は土手三番町であるが、火先がほかへ外(そ)れたので幸い難をまぬかれた。京橋の本社は焼けたろうと思うが、とても近寄ることが出来ないとのことであった。市村君は一時間ほども話して帰った。番町方面の火勢はすこし弱ったと伝えられた。
十二時半頃になると、近所が又さわがしくなって来て、火の手が再びさかん(漢字)になったという。それでもまだまだと油断して、わたしの横町ではどこでも荷ごしらえをするらしい様子もみえなかった。午前一時頃、わたしは麹町の大通りに出てみると、電車道は押返されないような混雑で、自動車が走る、自転車が走る、荷車を押してくる、荷物をかついでくる。馬が駆ける、提灯が飛ぶ。色々のいでたちをした男や女が気ちがい眼てかけあるく。英国大使館まえの千鳥ヶ淵公園附近に逃げあつまっていた番町方面の避難者は、そこにも火の粉がふりかかって来るのにうろたえて、更に一方口の四谷方面にその逃げ路を求めようとするらしく、人なだれを打って押寄せてくる。うっかりしていると、突き倒され、踏みにじられるのは知れているので、わたしは早々に引返して、更に町内の酒屋の角に立って見わたすと、番町の火は今や五味坂上の三井邸のうしろに迫って、怒涛のように暴れ狂う焔のなかに西洋館の高い建物がはっきりと浮き出して白く見えた。
迂回してゆけば格別、さし渡しにすれば私の家から一町あまりに過ぎない、風上であるの風向きが違うのと、今まで多寡をくくっていたのは油断であった。 ー こう思いながら私は無意識にそこにある長床几に腰をかけた。床几のまわりには酒屋の店の者や近所の人たちが大勢寄りあつまって、いずれも一心に火をながめていた。
「三井さんが焼け落ちれば、もういけない。」
あの高い建物が焼け落ちれば、火の粉はここまでかぶってくるに相違ない。私は床几をたちあがると、その眼のまえには広い青い草原が横わっているのを見た。それは明治十年前後の元園町の姿であった。そこには疎らに人家が立っていた。わたしが今っている酒屋のところにはお鉄牡丹餅(てつぼたもち)の店があった。そこらには茶畑まあった。草原にはところどころに小さな水が流れていた。五つ六つの男の児が肩もかくれるような夏草をかけ分けてしきりにばったを探していた。そういう少年時代の思い出がそれからそれへと活動写真のようにわたしの眼の前にあらわれた。
「旦那。もうあぶのうございますぜ。」
誰が云ったのか知らないが、その声に気がついて、わたしはすぐに自分の家へ駆けて帰ると、横町の人たちももう危険の迫って来たのを覚ったらしく、路上の茶話会はいつか解散して、どこの家でも俄に荷ごしらえを始め出した。わたしの家の暗いなかにも一本の蝋燭の火が微にゆれて、妻と女中と手つだいの人があわただしく荷作りをしていた。どの人も黙っていた。
万一の場合には紀尾井町のK君のところへ立退くことに決めてあるので、私たちは差当りゆく先に迷うようなことはなかったが、そこへも火の手が追って来たらば、更にどこへ逃げてゆくか、そこまでは考えている余裕はなかった。この際、いくら欲張ったところで何(ど)うにも仕様はないので、私たちはめいめいの両手に持ち得るだけの荷物を持ち出すことにした。わたしは週刊朝日の原稿をふところに捻じ込んで、バスケットに旅行用の鞄とを引っさげて出ると、地面がまた大きく揺らいだ。
「火の粉が来るよう。」
どこかの暗い家根のうえで呼ぶ声が遠くきこえた。庭の隅にはこおろぎの声がさびしくきこえた。蝋燭をふき消した私の家のなかは闇になった。
わたしの横町一円が火に焼かれたのは、それから一時間の後であった。K君の家へゆき着いてから、わたしは宇治拾遺物語にあった絵仏師の話を思い出した。彼は芸術的満足を以て、わが家の焼けるのを笑いながらながめていたと云うことである。わたしはその烟さえも見ようとはしなかった。