「御辞儀 - 團 伊玖磨」朝日新聞社 なおパイプのけむり から

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「御辞儀 - 團 伊玖磨」朝日新聞社 なおパイプのけむり から
 

僕は御辞儀という仕来たりを余り好まない。決して頭が高くて言うのでは無い。習慣として、さしたる意味も抵抗も無く誰でもが行っている事ではあるにしても、御辞儀とは、人が人に頭を下げる事で、その発生は、私の頭を、ほれほれ、この通り貴方の前に下げますから、ぶっ叩くなり、かち割るなり自由にして下さいという、絶対恭順の意の表現にあったのだと思う。街角などで、二人の人物が頭を下げ合って挨拶しているのを見ていると、どうも余り感心した姿では無いし、ましてや畳の上に坐って、頭を畳に擦り付けるような御辞儀をしている人を見ると、幾ら何でもあんな不潔なことは止めたら良いのにと思う。
御辞儀を厭だと思う理由の一つに、挨拶である筈の御辞儀が、謝罪の表現と 混乱する事である。頭を下げる言う語が、降伏、謝罪の意味で使われることは誰でも知っている。他所(よそ)の国の何處に、謝罪と挨拶を同じ姿で弁じる国があるだろうか。エスキモーの、鼻と鼻とを触れ合わせる挨拶行為は、謝罪の姿では全く無いし、握手は謝罪の意を表さない。然し、御辞儀は挨拶にも謝罪にも用いられて、その意味で、挨拶が日本では上目遣いになってしまう。
何時頃から日本人が御辞儀を矢鱈にするようになったのか考えた末、これは矢張り中国の影響だと勝手に決めていたのだが、どうもそうでは無く、中国文化の渡来三世紀に、中国の官人が編纂した東夷伝の以前から日本人は御辞儀民族だったらしく、魏志倭人伝にも、当時の日本人が、自分より身分の高い人物に逢った時 、如何に遜(へりくだ)って御辞儀をするかが書かれていて、こういう事がわざわざ書かれているその理由が、中国人の群吏がその姿を見て不思議に思ったからにある事は論を俟たないだろう。礼の国である中国人から見ても、日本人の御辞儀は過度な表現に見えたのだろう。
倭人伝の中程の、卑弥呼の共立に関する有名な記述の直前に、僅か二行の短さだが、御辞儀の件りが出て来る。
下戸与大人相逢道路逡巡入草伝辞説事或蹲或跪両手拠地為之恭敬対応声曰噫比如然諾。
この書き下し文を山尾幸久氏の著書「魏志倭人伝」(講談社現代新書)から写すと、
下戸(かこ)、大人(たいじん)と道路に相逢(あいあ)えば、逡巡して草に入り、辞を伝え事を説くには、或は蹲(うずく ま)り或は跪(ひざまず)き、両手は地に拠り之が恭敬を為す。対応の声を噫(おお)と曰う。比するに然諾の如し。
身分の低い者が身分の高い族長のような者に道路で逢うと、ためらいながら草叢に入る。挨拶をし、何かを言う時には、蹲り、跪き、両手をを地面に着ける。これがうやうやしく敬する姿である。応待する声は噫(あい)と言い、それは同意、賛成の意を表わす言葉のようである(噫はおおとする説とあいとする説がある)。
どうも、僕達の千七百年前の祖先は、権力者がやって来ると路傍の草叢に逃げ込んで土下座して、蹲ったり跪いたりして、噫などと言っていたらしく、余り冴えた印象を中国人に与えなかったようである。

去年は実に厭な御辞儀を何度も見た年だった。公害や闇カルテルの問題で、国会に参考人として呼ばれた企業の責任者達が、次々と政治家達の前で頭を下げ、国民の皆様に御迷惑をおかけしました事は、誠に申し訳無い事であります、今後はこのような事の無いよう、深く反省し、注意する所存であります、など、弁明する姿が、国会中継のTVの画面に現れては消えた。一方、政治家達も亦御辞儀ばかりしている印象を受けた。失言問題を起こした政治家は、御辞儀をするだけで簡単に前言を撤回し、金脈問題を起こした政治家は、御辞儀を繰り返す事で自分に不利な追及をかわす事に奔走していた。見ていて、日本では御辞儀さえすれば何事も罷り通ってしまうのだ という印象を受け、僕はその良い加減さに腹を立てた。厳しく不正を追及する側も、御辞儀に出逢うと、突如として鉾先はめろめろに軟化し、論理も雲散霧消してしまうのだ。
悪徳企業の社長が深々と国民の前に頭を下げる。営利会社の社長である以上、当然、この社長は頭を下げながら、御辞儀は無料で出来る事に感謝している。無料である以上、心の中で嗤いながら、何度でもこの社長は深々と頭を下げる。下げられている側は、下げている人物の一応の形に惑わされ、罷り通られてしまう。こんな馬鹿な事、無意味な行為があるだろうか。若しも、御辞儀という、謝罪とも、恭敬とも、然諾ともつかぬ作法が無かったら、こんな馬鹿な事は起こらないのでは無いか、僕はTVの画面を見ながら、益々御 辞儀という行為が嫌いになった。

人間だから、挨拶は叮嚀にしたい。然し御辞儀は厭である。それなら西洋風に握手をしようか、だが、握手は、接触伝染を考えると、そう簡単にはする気になれない。握手する相手が、つい今先刻迄どんな不潔な事をしていたかは判らないし、男女とも、結構淋病だのの病気持ちも多いだろう。そんな人達の手を無暗矢鱈に握るのは危険である。では昔の軍隊風に挙手の礼をしようか、然し、指を揃えて掌を前方に見せるあの敬礼法は、右手に何の武器をも持っていない事を相手に示す事がその発生理由だったと言うから、何と無く気が進まない。
結局、妙案が浮かぶ迄は、今自分がしているように、今日(こんいち)は、と言い、後は只何やら力無い笑いを顔面に浮かべて、稍(やや)淋しげにそれと無く立っていると言う、今の方法を続けているより仕方無さそうである。