1/2「性にタブーは必要だ - 遠藤周作」集英社文庫 愛情セミナー から

1/2「性にタブーは必要だ - 遠藤周作集英社文庫 愛情セミナー から
 

ごく素朴な疑問を若い読者の皆さんに提出してみたいと思う。その疑問とは「性の解放」についてである。
その前に私の立場をはっきり、させておこう。私は今日まで自分の作品に性をテーマにしたことがない。テーマにしたことがないのはごく簡単な理由で、私のとりくんでいるテーマは別のところにあるからだ。
自分の作品に性をテーマにしたものはないが私は一時、かなり熱心にサドの勉強をしたことがある。まだサド・ブームが日本にない頃で私は当時、留学中だったが、ある考えからサドの研究にとりくんだ。その考えとは私の小説『留学』(新潮文庫)を読んでくださった方には多少わかって頂けるだろう。だから私は後になって渋沢龍彦氏のサド裁判の折、一度だけだったが特別弁護人として法廷にたった。第一に私はサドの作品がいわゆる検察側のいう劣情刺激的なものとも社会を乱すものとも思えなかったからである。第二に私は国家なり政府なりが性道徳に干渉することを望まなかったからである。現代では性は個人の問題になっていてお上が干渉すべきものではないと考えているから である。性が犯罪と直接つながらぬ限り法律が口を出すべきではないというのが私の気持だった。第一、裁判官だって検事だって男である以上、淫猥なことを考えない筈は絶対にないのに、それが裁判所で急に道徳漢づらをして重々しい声を出すのは滑稽であり、偽善的である。
また性は個人の問題であるから、それが犯罪に結びつかぬ以上、社会もジャーナリズムも干渉すべきではあるまい。いつも思うのだが、一方では性の解放を口にしているくせに、他方では芸能人などの異性関係を批判めいた形で記事にする一部のジャーナリズムほど偽善的なものはない。
以上が私の大ざっぱな立場である。
このことを読者の皆さんに含んで頂いた上で平生から私にある疑問を出しておく。
性の心理の根底にあるのは「所有欲」もしくは「所有されたい欲」である。別の言葉でいうならばそれを制服欲、もしくは制服されたい欲と言ってもよい。
恋人同士がやがては性のつながりを持つというのは根本には精神的恋愛には限界があると感ずる場合だ。恋愛をやった者は皆、知っているだろうが、恋愛は「くるたのしい」ものである。「くるたのしい」とは苦しく、かつ、楽しいを略した私の新造語だが、恋愛の楽しさのなかには苦しさが必要であることは既に情熱についての解説でのべた。
情熱というのは安定すれば消えるもので、不安や苦悩があれば燃えることは、言いかえるならば、恋愛にはいつも「もっと」という感情が必ずつきまとうということになる。それは相手をまだ全部、所有していないという感じであり、「もっと彼女がほしい」「もっと、もっと彼を全面的にわたしのものにしたい」と恋人たちはいつも考えるということなのだ。
この「もっと.......もっと......」という所有のねがいが普通、恋人たちを精神的恋愛から肉体のつながりに導くと思っても、そう間違いではないであろう。
もっと彼女がほしい。彼女の外側だけではなく、その内側もほしい。彼女が身にまとっている衣服を剥ぎたい。なぜなら衣服というのは彼女が自分にだけではなく社会の誰にでもみせる覆いだからだ。彼女が自分にだけにみせるものを見たい。男女の肉体的欲望にはこの「もっと、もっと」の願いが含まれているのだ。性の心理の根底にあるものは「もっと所有したい」という所有欲がひそんでいるのである。
このことは逆に、性の心理は所有欲がみたされれば終ってしまうことを意味している。「もっと、もっと」という願いがすべてかなえられれば性的心理はそれ自身で完結するのである。このことはもちろん男女によって違いがある。多くの場合、男性は女性の衣服を剥ぎ、その裸の体を所有し終った時、あとは言いようのない空虚感を感じるのが普通である。空虚感というのは正しくないかもしれぬ。正確に言えば、それまで彼を駆りたてていた「もっと、もっと」がもうすべて終ってしまったという感じである。
女性の場合は逆に男に所有された時、空虚感より充足感を感ずるほうが多い。女性は男性とちがって性の結合を情熱の完結におかず、愛のはじまりにおく心理をもっているからである。しかしそうした精神的な愛情が伴わない場合は女性もまた男性と同じ心理になってしまうのである。
だから少なくとも、こういうことは言える。性の心理、もしくは性欲はこの「もっと、もっと」がある限り昂揚するのであり、すべてがまだ充たされぬゆえに、「もっと、もっと」の心理が起り、性欲はこの「もっと、もっと」を刺激にして高まるのである。すべてを与えればそれはみち足り、飽き、しぼんでしまう。
男に飽きられた女性には彼女が彼にすべてを与えすぎたためだと気がつjかぬ人が多い。彼女は惜しみなく、すべてを彼にjくれてやり(それを愛情だと錯覚したのである)そのために彼に「もっと、もっと」の心理を起させなくしてしまったのである。恋愛は何よりもそれが破れぬようにせねばならぬ。にもかかわらず、女性は「与えすぎる」ことで、自分たちの恋愛を台なしにしまう時がある。はっきり言えば、その女性は、人間の心理、男の「もっと、もっと」の心理を知らなすぎたのである。
以上の性の心理構造をふまえた上で、私は次の疑問を読者のみなさんに提出しよう。恋愛中の肉体交渉は恋愛を飽きさせないか、という疑問である。

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