「はじめに 『芭蕉の旅は秘密だらけだ』- 嵐山光三郎」芭蕉の誘惑 から

「はじめに 『芭蕉の旅は秘密だらけだ』- 嵐山光三郎芭蕉の誘惑 から

 

芭蕉の名前を最初に知ったのは中学三年の国語の授業で、教師より『奥の細道』第一章「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人なり。・・・・・」を暗唱させられた。そのときは意味もわからず「ツキヒハハクタイのカカクニシテ・・・・・」とお経のように覚えたものだが、そのうち芭蕉の言霊が躰にしみてきて授業をほっぽりなげて旅に出たくなった。で、中学三年の夏休み、私はひとりで日光、黒羽、白河まで出かけ、阿武隈川を見て帰ってきた。東北新幹線などない時代だからここを廻るだけで一週間かかった。そのさきの松島、平泉まで行ったのは中学の修学旅行で、中尊寺金色堂に入ったときは目玉が黄金に染まり、ぶったまげて腰がぬけた。金色堂の外ににある森の闇と 、内部の黄金が隣りあわせになっているこの世のからくりを目撃した。

奥の細道』のすべてを踏破したのは大学三年の春で、三週間ほどかかった。授業をさぼってブラつく旅はなかなかのもので、一人前に芭蕉の気分になり、雑草を見て「兵どもの夢の跡」と嘆息し最上川で遅咲きの桜を見て舟にのり、立石寺の石段を息せききって登り、「佐渡によこたふ天の川」を見物したのだった。そのころよりさして目標のない放浪癖がはじまった。

私はいまでも年の半分はウロウロと旅をしていて、その原因をさぐれば芭蕉性感染症である。中学三年で『奥の細道』巻頭を暗詠したときから、旅を栖とする呪縛にかかって、どこかを放浪しているときだけランランと眼が光り、家に帰っても四。五日たつと腰が浮いてくる。慢性旅行中毒者となった。

五十歳をすぎてからも思いつくままに『奥の細道』の旅へ行くようになり、曽良『旅日記』を読み『菅菰抄』を読み、それまで気がつかなかった『奥の細道』のフィクション性を知るようになった。私にとって芭蕉は、神聖にして崇高なる詩人であるが、「マテヨ」と思うときもある。芭蕉は手に負えない魔法使いであって、旅のあいだ、かなり好き放題をやっていた。『奥の細道』は二重三重に仕掛けられた文芸の罠があり、それを実地検証すると驚きの連続で、「ハッ」と声をあげることもたびたびであった。芭蕉は、人も句も蜃気楼のようで、近づいてつかまえたと思った瞬間に手から抜け出して、遥か奥に屹立している。

芭蕉をつかまえるのは難しいもの『奥の細道』は、旅のあとを辿ることによって立ちあがってくる言霊がある。芭蕉が句を得た現場に立ち、芭蕉の目玉を拝借して、光と風を鑑賞するのである。風景に三百年前の時間が侵食し、句がピチピチと動き出す。

芭蕉全紀行を思いたったのは三年前のことであった。芭蕉が『奥の細道』に辿りつくまでの足跡を全部まわってみることにした。『野ざらし紀行』は芭蕉四十一歳の旅である。「野ざらし」とは野に捨てた髑髏のことで、芭蕉は野たれ死に覚悟で旅に出た。旅の途中、富士川近くで三歳の捨子を見るというドラマティックな展開がある。つづいての『鹿島紀行』は鹿島神宮へ月見に行く風流な旅であった。

あやしい旅は心を寄せた美青年杜国(万菊丸)との蜜月『笈の小文』である。『笈の小文』は芭蕉没後に刊行された紀行だが、芭蕉は秘密本のままにしておきたかったのではないだろうか。また、おばすて山で月見をする『更級紀行』のルートは、芭蕉ゆかりの俳枕が多く残っており、芭蕉ファンにとっては穴場である。

『幻住庵記』を書いた滋賀膳所の幻住庵、『嵯峨日記』を書いた京都嵯峨の落柿舎、東京深川の芭蕉庵のいずれにも芭蕉がひそんでいる気配があり、そこでの句や俳文と読みあわせると、いっそう趣きが深い。芭蕉が「おいでおいで」と手招きしてくれるようで、「芭蕉の誘惑」は至福きわまる旅なのである。ということで、まずは、芭蕉の故郷、伊賀上野へむかうことにした。