(巻三十六)立読抜盗句歌集

(巻三十六)立読抜盗句歌集

がみがみとぶつぶつ共に着ぶくれて(彦根伊波穂)

熱燗や酒が貴君を駄目にする(藤嶋務)

充分に娑婆見し蛇の穴に入る(羽鳥つねを)

ものの影秋の長さを地に置ける(大瀬益太郎)

杞憂あり明けて朝来て毛布干す(鈴木明)

決めかねてまたひと回りだるま市(青木まさを)

年寄りを嫌ふ年寄り敬老日(河内きよし)

明易し意外と揺るる救急車(石黒興平)

イヤホンに音の通はぬ冬籠り(滝川直広)

貼りかへるまでの障子を小づくろひ(下村梅子)

深川や木更津舟の年籠(正岡子規)

死霊怨霊一皮剥けばみな優し(佐藤鬼房)

熱中も夢中のときも過ぎて秋(鷹羽狩行)

野をゆけど野に親しまず冬の川(田中裕明)

すぐそこと傘を断る小夜時雨(西山睦)

雪よりもつめたき雨にかはりけり(板倉ケンタ)

恐竜も秋刀魚も骨を残しけり(中島正則)

名月を上げて庭師の帰りけり(東洸陽)

段取りの悪しき男と障子張る(山田千鶴)

再びは生まれ来ぬ世か冬銀河(細見綾子)

焚火の輪噂の火種ここにあり(北村純一)

裏道のこの静けさよ寒四郎(松本久美恵)

露の世は露の世ながらさりながら(一茶)

界隈はむかし闇市冷奴(吉田葎)

語りつつあしたの苑を歩み行けば林の中にきんらんの咲く(今上天皇)

青ぬたに箸を汚して酒一合(坂井清明)

両論を併記している朧かな(徳永松雄)

ビルの間のこんなところに今日の月(野田映人)

憮然たる貌して妻の昼寝覚め(志塚政男)

角とれてなどと褒められ敬老日(佐藤益子)

冷やかに我が腑をさぐる内視鏡(岩城鹿水)

何もせね訳にもゆかず落葉掃く(川村敏夫)

ほろ酔を許さぬやうな冬の月(日塔脩)

採血に投げ出す腕や冬の月(西藤玄太)

行年をふり返りいる煙草かな(森田桃村)

水の裏見ているごとし冬の空(川嶋一美)

足跡の遊びごころや雪の上(山本素竹)

手袋の片手のみありもの思ふ(美帆シボ)

この人がこんな冗談おでん酒(上村敏夫)

スキー帽かはいと言はる老いにけり(三方元)

町師走バスは遅れてくるが常(内藤悦子)

セーターの胸を占めたる猿の顔(小室水枝)

長閑さやおだてに乗りし一万歩(堀江重臣)

屈伸の掌床に夏来る(井上亮子)

死ぬまでは転ぶことなく寒雀(三橋敏雄)

春宵の一句すなわちひとりごと(花谷和子)

醜聞の似たり寄つたり神の留守(仁平勝)

晩秋の損得もなき立呑屋(星野高士)

捨て印のごとくに淡き昼の月(小暮駿一郎)

不器量の身とな思ひそ残り柚子(吉倉紳一)

糟糠の妻なれどまた冷奴(石井千里)

凡凡と生きて花ある春のくれ(伊藤和夫)

この水も年金のうちそろと撒く(木島茶筅子)

ポケットのやりくりつかぬ更衣(堀江重臣)

ビル風と云へど五月の風にして(横川満)

雪溶けてさしたる松と思はれず(岩田一男)

桜桃の茎をしをりに文庫本(丸谷才一)

年の瀬や車列を止めて救急車(草刈邦雄)

着ぶくれて禿げたるほかに賞罰なし(亀田虎童子)

古書店の奥に主の懐手(植田桂子)

歎きいて虹濃き刻を逸したり(橋本多佳子)

安ければ速き床屋や都鳥(小川軽舟)

桃色になつたかしらと蓋をとる(広瀬ちえみ)

刑事とて一句詠みたし雪ぼたる(山田彦徳)

よく喋る妻に天罰杉花粉(前田一草)

世を恋ふて人を恐るる余寒かな(村上鬼城)

御無体もこよひは為されひめはじめ(高橋龍)

スナックに煮凝のあるママの過去(小沢昭一)

亀鳴くや普通の人の普通の日(亀田虎童子)

金沢の見るべきは見て燗熱し(西村麒麟)

イマジンを聴くたび孤独雪の夜(中尾公彦)

仕方なささうな貌して鴨流れ(仙田洋子)

夕鯵を妻が値切りて瓜の花(高浜虚子)

紅梅のおづおづと咲き未知の老い(鍵和田ゆうこ)

春なれや綻び始む隠し事(宇野順二)

湯豆腐のをどり始めが掬ひ時(野津星彦)

役割を果たして晴れて落し水(萩原昇風)

用のなき雪のただ降る余寒かな(井上井月)

萩の風何か急かるる何ならむ(水原秋桜子)

虹立てり急に食ひたき海のもの(神尾季羊)

一生を泳ぎつづける鮪かな(星野恒彦)

死に顔まで責任もてぬ青芒(岸本マチ子)

枕辺にラジオ引き寄す夜長かな(荒井ハルヱ)

だれかれの事あれこれと温め酒(秋山信行)

飛行機のずしんと降りる枯野かな(長谷川櫂)

此の恋や思い切るべき桜桃(川島雄三)

本名を豆腐芸名冷奴(増山山肌)

麦秋や書架にあまりし文庫本(安住敦)

銀行へ怪しき身なり花粉症(高崎和音)

確定申告終へて風船飛ぶ方へ(小木曽あや子)

わが夫へ申告漏れの春ショール(川崎栄子)

木下闇昔へ曲る石畳(川崎慶子)

美しく消ゆるは難し残る雪(徳竹邦夫)

この家の行く末話す夕すずみ(木村万里)

この気持告げる三月しまう三月(林家たい平)

死に際にとつて置きたき春の雨(高野ムツオ)

値段見てそつと戻して着膨れて(小林春休)

佃煮の暗さそれぞれ秋の風(小山玄黙)

退屈と思はねど暇柿食うて(古川朋子)

鉄鍋になじむ木蓋や雪催(安西信之)

よく眠る夢の枯野が青むまで(金子兜太)

蕎麦太きもてなし振りや鹿の声(夏目漱石)

引鴨に別れ馴染めぬ湖面かな(をがはまなぶ)

お父さんのソフトクリーム垂れやすし(遠山陽子)

原罪の股ぐら熱し実梅採り(熊谷愛子)

冬浅し心に詩(うた)あるものの幸(鷹崎由未子)

散会すひとりひとりに月ひとつ(近藤牧男)

ポストまで春の一句と歩きけり(鬼形のふゆき)

二もとの梅の遅速を愛す哉(蕪村)