「ひきこもれ (3節抜書)ー 吉本隆明」

 

 

「ひきこもれ (3節抜書)ー 吉本隆明

 

教室に流れていた嘘っぱちの空気

不登校について考える時にぼくがいつも思い出すのは、子どもの頃、教室に流れていた嘘っぱちの空気です。
偽の真面目さ、偽の優等生、偽の品行方正先生が求めているのは、しょせんそういったもので、見かけ上だけ、建て前だけ申し分のない生徒でいればそれでいいのです。生徒のほうも小学校高学年くらいになるとよくわかっていて、「それに合わせればいいんだろう」と思って振る舞っている。
ぼくはそれを「偽の厳粛さ」と呼んでいますが、とにかく先生と生徒の両方で嘘をつきあって、それで表面上は何事もなくうまくいっているような顔をしているという、そういう空気がたまらなく嫌でした。
嘘は誰でもつきますが、嘘をつきあって、それでいて真面目で厳粛であるというのは、いくら子どもでも耐えがたいわけです。だから、学校というのはなんて嫌なところなんだろうと思っていました。
実際、小学校高学年から中学校くらいにかけて学校に行くのがきつくてたまらなくて、よくさぼっていました。いわば不登校的な要素の強い生徒だったのですが、 それは「偽の厳粛さ」のせいです。
ゆいいつ授業と授業の間の休み時間、ぼくらの頃は遊び時間と言っていましたが、あの時間が唯一、息苦しさを緩和してくれる要素でした。あれがなければ、ぼくだって相かんわ当おかしなことになっていたと思います。
だいたい、教室の中で勉強がよくできるなんていうのは、偽の頭のよさだということくらい、ほとんどの生徒はわかっています。

子どもを苦しめているものの正体

ぼくは当時、学校の勉強がわりにできたのです。だから、先生のほうも「こいつ、いやがっていい加減に授業を受けてるな。生意気な奴だ」と思っていたはずなのですが、何も言いませんでした。
そう思っているのなら、その通り言ってくれればいい。「おまえ、勉強ができればそれでいいってもんじゃないんだぞ」と、教師が率直に言ってくれるような雰囲気があれば、それが一番いいわけです。しかし、そこのところは偽の感情の交流でもってすまされていた。どこまでいっても偽物なのです。
いまの学校でも同じようなことが起こっているのだろうと思います。
それが偽物であろうと、一応の真面目さ、厳粛さのようなものが教室に漂っていさえすれば、教師は文句を言わない。生徒も「偽の厳粛さ」のために我慢する。我慢して我慢して、「学校というのはこういうものなんだ、仕方がないんだ」と諦めて過ぎていく。この「過ぎていく」ことに耐えられない子どもが不登校になるのです。
おまけにいまの社会では、この時期に将来のことまでが何となく決まってしまうところがある。いま落ちこぼれたら将来はないぞ、というような嫌な圧迫感が、現代の子どもを苦しめ、より大きな負担になっているのではないでしょうか。
「偽の厳粛さ」のくだらなさ、いやらしさ、空虚さ。それを、生徒はちゃんと見抜いています。だから感受性が強くて鋭い子どもほど学校が嫌になる。病的な理由で不登校である子は少ないのです。

「余計なこと」はしないほうがいい

教師は黒板に向かって数式を書いたり、文法を説明したりして、授業をきちんとこなしてくれればそれでいい。生徒にいつも背中を見せていればたくさんなのです。
それなのに、生徒のほうを向いて、授業以外のことについても広範囲に問題の種を見つけ「これでは駄目だ」などということを言う。倫理的なお説教のようなものを生徒に向かってやろうとするわけです。
しかしそこには本音もないし車直さもない。上っ面だけです。
そんなことは要らないとぼくは思います。余計なことはやらないほうがいいのです。自分の考えを披瀝して「こうでなきゃ駄目なんだよ」などと言う嘘っぽき、偽物の道徳性は、生徒にはとっくにばれています。
小学校の上級生くらいから、黒板に向かっている後ろ姿を見るだけで、子どもには「この先生、ゆうべ勉強してこなかったな」というようなことがわかります。たとえば担任の先生ならば、教師がことさら何かを言わなくても「この先生はぼくのことをよくわかってくれているな」とか、「この先生の性格は、ぼくは好きだな」 などと判断できるものなのです。