「「茶わんの湯」から ー 竹内均」同文書院 竹内均の科学的人生論 から
私は福井県の大野市に生まれた。大野市は、福井市から三五キロメートルほど山の中へ入ったところにある。私の幼いころにはまだ、幕末の動乱時代をさむらいの妻として生きぬいてきたおばあちゃんが生きており、私は土蔵を改造した感じの離れ部屋で、このおばあちゃんと一緒に寝起きをした。土蔵二階には本がいっぱい置いてあった。トドハンターの数学の本の翻訳に最初にお目にかかったのも土蔵の中である。先祖によほど数学の好きな人がいたにちがいない。亡くなった兄の影響もあって、幼いときから私はむさぼるように本を読んだ。これが山の中の大野と広い世界とをつなぐただ一つの窓だったのである。小学校のころには、ジュール・ベルヌの「十五少年漂流記」、「月世界旅行」、「地底探險」 や古今東西の歴史物を愛読した。
そして、中学へ入って二年目の年に、私は寺田寅彦先生の随筆に最初にお目にかかったのである。最初に読んだ随筆は「茶わんの湯」と題するものであった。この文章は次のように書き出されていた。 「ここに茶わんが一つあります。中には熱い湯がいっぱい入っております。ただそれだけではなんのおもしろみもなく、ふしぎもないようですが、よく気をつけてみると、だんだんにいろいろの微細なことが目につき、さまざまな疑問がおこってくるはずです。ただいっぱいのこの湯でも、自然の現象を観察し研究することが好きな人には、なかなかおもしろいみものです」。話は茶わんからたちのぼるゆげに始まり、茶わんの湯の中の対流から、飛行機にとって危険な突風や海陸風山谷や季節風に及んでいる。
この随筆は私をとらえて離さなかった。自然の謎解きをする学問がこの世にあり、その謎解きの鍵がごく日常的な現象の中に存在することを、寺田先生は私に教えて下さった。それ以後私は、図書館などで先生の随筆をさがし出しては、これを愛読した。そして大きくなったら、寺田先生のような学問をやって一生を終えたい、と考えるようになった。山の中の田舎町に住む少年にとっては、それはまるで夢のような望みであった。
しかし、運命の見えざる糸は、私をその夢の実現にまで導いてくれた。旧制の第四高等学校を終えたときに、東京大学に地球物理学科というのができ、私はその第一回目の学生となった。大学では坪井忠二先生の講義にひきつけられ、大学を終えた後の大学院では、先生に指導教官になっていただいた。坪井先生は寺田先生の直系のお弟子である。そして幸運にも、坪井先生のあとをおって、私は東京大学の教授になった。そして私を地球物理学の世界へ導いて下さった寺田先生を、学問上の祖父と呼ぶことができるようになったのである。
いまでも私はときどき、寺田先生の随筆集をひもといて「茶わんの湯」を読む。なんとその中には、 現代地球科学の最大の問題である「マントル対流」の原理が生き生きと物語られている。このことに何か因縁めいた感じをいだくのも、幼いころ祖母から教えられた浄土真宗の教えのせいであろうか。