「老人(抜書) ー 永井荷風」岩波文庫 問はずがたり・吾妻橋他十六篇 から
老人は燈[あかり]を消して夜具の中に這入った。今日は昼過に墓参をしたり葬式に来てくれた町内の人達のところへも礼参[れいまいり]に立寄ったりして、かなり疲れもしたので、眼をつぶればすぐに眠られるつもりでらあったが、なかなかそう思うようには行きそうもない。寝返りをするたびたび自分では思出そうとも思っていないさまざまな事が、秩序なく心の中に浮かんでくるのであった。
老人は二十五の春、或専門学校を卒業して或会社に雇われたが、三年の後会社の破産に遇い、一時しのぎのつもりで或病院の会計に雇われて見たのであるが、病院は丁度建物を増築する盛況に向かっていた時で、給料も会社員よりも多額であるばかりか、何かにつけて目立たない余徳もあるところから、そのまま腰を据えたようなわけであった。その時病院に石田浜子という附添[つきそい]看護婦がいて、石田は埼玉県の或町からその時代の風潮に感化された若い女の例に漏れず、都会の繁華にあこがれ東京に出て来て、初めはニ、三ケ処山の手の屋敷へ女中奉公をして歩いた後X病院の看護婦に住み込んだ。さして目に立つほどの容貌[きりよう]ではないが、二十を越したばかりの艶[なまめか]しさに、大学を出たばかりの薬局の助手が忽[たちま]ち誘惑しようとしたのを、臼木が窺い知ってそれとなく注意をしたのが縁のはじまりであった。
石田は一時埼玉の生家へかえり、半年ほどして再び東京へ出て来て、他の病院に住込むと間もなく、臼木の許へ手紙を出した。二人の感情はこれから次第に親しくなり、やがて結婚のはなしが成り立った。その訳は最初石田を誘惑しかけた薬局の助手はその後不品行のため病院を解雇されてから、或未亡人を欺きその財産を横領しかけた事が警察問題となり、醜聞が新聞紙に書き立てられた。それを読んだ石田はもしもあの時会計の臼木さんが居なかったら、自分もとんだ目に遇わされたかも知れなかった、難有[ありがた]いやら懐かしいやらで、臼木へ手紙を出したのであった。
臼木は箱崎町の貸二階を引払い、石田と二人で新大橋向[むこう]の借家に新しい家庭をつくった。翌年常子と名づけた女の子が生れる。やがて震災の火は二人の家庭をも、その勤務先の病院をも焼き払ってしまったが、一年たたぬ中市民の生活は市街の光景と共にまた元のようになった。平穏で単調な二人の生活には毎年節分の夜に 撒く豆の数をふやすより外には何の変化もなかった。
臼木は箱崎町の貸二階を引払い、石田と二人で新大橋向[むこう]の借家に新しい家庭をつくった。翌年常子と名づけた女の子が生れる。やがて震災の火は二人の家庭をも、その勤務先の病院をも焼き払ってしまったが、一年たたぬ中市民の生活は市街の光景と共にまた元のようになった。平穏で単調な二人の生活には毎年節分の夜に 撒く豆の数をふやすより外には何の変化もなかった。
臼木はX病院の忠実な会計のおじさんとして、病院のみならずその附近の町の人達からも信用されるような好々爺になった。臼木は老眼鏡の度もあまり強くならない中、紙幣を数える指先もまだ確[たしか]である中、将来家族の困らぬだけの恒産をつくって置かねばならない。それが人間生涯の真の意義だと考え、もしその目的を達することができたなら、それ以上人間の幸福はあるまい。そして彼はこの目的の為には職務に対する忠誠の心を失ってはならない。善行には必ず善果のあるべき筈のものだと信じていた。
ところが戦争はその所信を空しくした。国民の生活は覆され、個人の私産は封鎖されてしまった。しかし彼はなお葛飾区立石町に建てた家屋だけ空襲の災に罹[かか]らなかった事を、焼けて家を失った人達の不幸に比較して、無上の幸福だと諦めるだけの余裕を失わなかった。一人息子の戦死した悲しみも事々[ことごと]しく人に向っては語りもしなかった。三十年連添った老妻浜子の病死もまた人間夫婦の生涯には、その中の一人が必[かならず]経験せねばならないものと諦めをつけていた。
ところが戦争はその所信を空しくした。国民の生活は覆され、個人の私産は封鎖されてしまった。しかし彼はなお葛飾区立石町に建てた家屋だけ空襲の災に罹[かか]らなかった事を、焼けて家を失った人達の不幸に比較して、無上の幸福だと諦めるだけの余裕を失わなかった。一人息子の戦死した悲しみも事々[ことごと]しく人に向っては語りもしなかった。三十年連添った老妻浜子の病死もまた人間夫婦の生涯には、その中の一人が必[かならず]経験せねばならないものと諦めをつけていた。
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臼木はふいと暗闇の中に七十二歳まで生きていたその父の面影を見た。父はその配偶者が六十で死んだ一周忌の来ない中に、その後を追って行った。臼木がまだ専門学校在学中のことであったから何十年かの昔である。臼木は父の老後に生まれた孫のような子で、早く生まれた兄や姉も一人二人あったが、その人達はいずれも老父より先に死んでいた。
老母の病が危篤だという国元からの電報を受取り、東京から急行列車で駆けつけ、やっと葬式に間に合ったのであるが、その時来合わせた親戚達が男の年寄というものは、長年連添った老妻に先立れると、それから後一人で長く生残るものはまず少ないのが通例である。平生元気のいい丈夫な老人ほどそういう場合には却て脆[もろ]くぽっくり逝くものだとひそひそ話をしているのを耳にしたことがあった。
これは臼木が六十七歳の今日まで一度も思出したことのない遠い記憶である。長い間全く忘れ果てている事がどうして今夜突然思返されて来たのであろう。
それが訳もなく不思議に考えられるだけ、その身に取っては間違のない前兆のような気もする。もしそうだとすれば臼木自身もその父と同じように、そう長くは生残らないのかも知れない。
忰は自分よりも先に死んだ。娘は明日の朝遠く下ノ関へたって行く。たった一人になったその身にはもう思残すことは何もない。もし老父と同じようにその配偶者の一周忌さえ来ない中に死ぬることができたなら、それはどう考えても人生幸福の中の一つだと見なければなるまい。愚痴でもなければ、自分を欺く空威張でもなく、強いて粧[よそお]う空元気でもない。ましてや戦後の世の中、代用食に折々飢を忍んでいる人達の言葉をきけば、無理に死ぬるわけにも行かないから、自然に死んでくれるのが何よりの仕合せだと言っているではないか。
臼木老人には戦争中に成人した男や女がさほど今の世の中を悲観していないように見えるのも、これまた不可思議の一つであった。近い例を取れば娘常子の様子もそうである。乗れないほど雑踏するという汽車、硝子窓の満足なのは一つもない客車で、二日ちかく乗りつづけて行く事をも、さして難儀だとも思っていないらしい。その生れ育った箱崎町の焼跡の話やら、戦災を免れた水天宮の話などが出た時にも常子はたいした興味も催さず、人間はどこで生れて何処で成長して、何処に住もうとも、それはその時の都合だと、飽くまで悟りきっているようにも、老人の目からは見えるのであった。
老妻の従妹になる産婆のお近は常子よりも七、八ツ年上で、もう四十を越しているのだが、この女も戦敗後の世の中についてはさしたる不安の念も抱いていないらしく、戦争中に較べると結婚する者が激増したと見え、甲府のようなところでも、どうかすると一日に七、八軒も廻らなければならないような急[いそが]しいことがあると言って、月々に暴騰する米価や物価などは深く念頭に置いていないようにも思われた。
臼木はあの女達ももう若くはないのであるが、自分ほどには戦後の生活について底知れぬ恐怖を抱いていないらしく見られるのは、これを要するに年齢の相違に依るばかりで、外に仔細はないであろう。そう考えると、七十を目の前にひかえた自分にはもう生活と戦って行く活力のすっかり消耗している事がただ情なく思い知られるばかりであった。
下座敷に寝た二人はまだ何やら話をしている。明日の朝出発するのなら早く灯を消して眠ればいいのに。と臼木は思いながら、話声のいつか遠くなるような気がすると共に知らず知らず眠りに落ちた。
(昭和二十五年7月オール読物所載)