「一夜の宿り ― 森敦」日本の名随筆67 宿 から

 

 


「一夜の宿り ― 森敦」日本の名随筆67 宿 から

 

眼を覚すと女のひとの声がする。方言ではないが鳥取の訛で、お山が白くなったようなことを言っている。そういえば、きのう大山[だいせん]寺や神社に詣でるため、杉木立ちの間のながい石段を踏んで登るさ、暮れるには早い青空から、チラチラとかそけき雪が降ってきた。しかし、遠山[とおやま]に降る雪が気流に乗って来るのを飛雪という、それかなと思って気にもとめずにいたのである。新館の廊下を幾曲がりして階下[した]に降り、伽羅木[きゃらぼく]などのある平庭に出ると、ゆうべ食事の世話をしてくれた女のひとが立っていた。冬の厳しい地方の者が初雪を見る気持ちには、他所者の知り得ぬ感動がある。女のひとはそうした感動から、だれに話すでもなくひとりごちたのであろう。ぼくを見かけると、手をあげて指さしながら、

「ほら、お山が白くなっているでしょう」

おなじ言葉を繰り返した。ぼくは絶えて久しく失われているものが、ふと甦って来るのを感じた。あるいは、宿坊に泊めると言われ、たとえば山形市から鶴岡市へと抜ける湯殿山詣での信仰街道、六十里越沿いの町々村々にかけて見られるようなものを想像して、泊められた新館があまりにホテル化していたのに、なにか味けなさを感じていたからかもしれない。しかし、宿坊といえども先達たちが勧誘して来る民宿であって、民宿もまた旅館化して、なまじい旅館より感じのよくないことがある。かつてのように一夜の宿りにもまさに人生を思わすような旅をし、多生の縁といわれるような袖のふれあいを味わうなどという考えが、おかしいと言えるであろう。

米子市のあたりから眺められる大山は、やや尖り気味の富士山の形をしている。それがもうその麓といっていい、この大山寺町に来ると、頂がいくらか長くなり、ギザギザに見える。大山を裏から眺めて暮らす者たちは、鋸山とも呼んでいるそうだから、あるいは福島の磐梯山や山形の月山のように噴火かなにかで片側が大きく抉られたのかもしれない。裾は濃緑の杉をほかにしては、枯れ枯れながらまだ紅葉も残っているものの、次第に這松にでもなるのか苔色になり、なるほど頂はうっすらと雪で白くなっていた。

女の人はちょっとご案内しましょうと言って、新館のそばの平庭を前にした平屋建てに連れて行ってくれた。屋根は木端葺きでいまどきまだこんなものがあるのかと、新館の二階から眺めていたものだが、もとは米子市のほうの庄屋の家だったのを移築したのだという。天井は高く部屋は大きく、おどろくほど立派な造りで、鴨居には囲炉裡をかこんだ高松宮一行の写真などが懸けてあった。ここの新館もそうだったが、どこに行ってもバス、トイレつきのおなじような部屋で、便利なかわりに索莫として代わり映えがしない。

「ここに泊めてくれればよかったのに」

そうぼくが言うと、女のひとは、

「お泊めしてもよかったんですけどね。急に冷え込んで来たんで、お風邪でもひかれると思ったんですよ。」

「しかし、高松宮もここにみえたんだろ」

「ええ。宮さまはたいへんお気に召して、スキーに来られると、いつもお立ち寄りになるんです。」

そしてここに泊まって行かれたかどうかは聞き逃したが、このごろは高松宮が泊まられた部屋だからといって、泊めないなどということはない。むしろ、そうした部屋をあてがうことが、優遇のしるしであるかのように、ほこらかに泊めてくれるのである、徳島市の旅館では皇太子ご夫妻が泊まられたという部屋に泊めてもらったし、磐梯熱海の旅館では天皇ご夫妻が泊まられたという部屋に泊めてもらった。

皇太子ご夫妻が泊まられたという徳島市の旅館の部屋は、二間を一間にして和洋折衷に改装したもので、窓からは街★[がいく]が眺められるばかりだったが、天皇ご夫妻が泊まられたという磐梯熱海の旅館の部屋は和室で、廊下を渡して檜風呂の浴室がもうけられているというほかは、特に改装したともみえなかった。しかし、前には樹々の緑を映した池があり、見事な庭園になっていて、一夜を明かしたひとたちが楽しげに写真を撮ったり、撮られたりしている。磐梯熱海というのだから、磐梯山を借景にでもしていれば言うことはなかったろう。

ぼくは硝子戸を開けソファにもたれながら、不思議にも天皇ご夫妻がこうしてここに掛けられたろうとは思いも及ばず、かつて遊心の趣くままに旅をしていたことを心に描いた。ぼくは人生の半ばを遊んで暮らし、旅をするにもこれというあてがなかったから、汽車もたいてい鈍行に乗った。鈍行も当時はほとんど乗りつぎの接続もよかったし、席も向かいあいになっていて、小さい駅に着くたびに乗って来る者、降りて行く者があり、客は絶えず変わったが、客は互いに話しかけ行く先を尋ねて、しばしの友となったものである。

ことに、日本海の沿線のそうした汽車には、必ずと言っていいほど大きな風呂敷に包んだ行李を持った富山の薬屋や、ふくれあがった大鞄を脇にした燕の洋食器屋が乗っていて、

「わたしは次の次の駅で降りますが、そんな旅ならどこそこまでお行きなさい。そこにはなんという宿がある。わたしの名を言えば、安くしてくれるばかりか、ほかの客よりおかずもひと皿は多くしてくれますよ」

などと然るべき商人宿を教えてくれる。商人宿にはまたそこを教えてくれたような行商人たちが泊まっている。部屋が便所に近いとかすかに屎尿の臭いがし、風呂にも垢が浮いている。冬は炬燵で背を丸め、熱燗でもチクリチクリやってればいいが、夏は蚊帳を釣っても天井のあたりに蚊の群がる唸りがし、裸でいても暑いから、襖ひとつで仕切られた隣の部屋でも、団扇でからだを叩く音がする。その上、蚤にせめられて眠りもやらず、やっと寝ついたと思うと朝になっていて、バタバタと早発ちの客の膳の脚を折り畳む音が聞こえたりするのである。

あれは月山を彼方にした鶴岡市のごみごみした裏町だったが、乞食宿があるというので泊まったこともあった。乞食宿といっても泊っているのは、ゴム紐や歯ブラシを押し売りして歩くたぐいの者たちで、むろん相部屋である。彼等は申し合わせたように、みょうな証明書を持っていた。僅かな金を出せばそんな証明書を出してくれる協会と称するものがあり、警察に捕まってもなんとかなるぐらいなご利益があるそうで、彼等は地図を拡げて相談し合い、ゴム紐や歯ブラシをそのへんの店から格別安く仕入れるでもなく買って来て、「泣く」なり「凄む」なりして売りに出る。しかし、街の近くの村々では「押し売りお断り」の立て札を立て、みなして彼等をしめだしている。

勢い、彼等は山奥の僻遠の地にもぐり込まねばならず、各自の持ち場もきめておかねばならぬので、地図が必要だということにもなるのだが、いつまた会おうと約束するでもなく、いつとなく散って行き、そこに定住しているのは汚れた神主姿の老人ぐらいなものだった。この老人は農家を廻ってどこでもかまわず、「稲荷大明神!」と唱えてはいり、握り米をもらうとさっさと出て行く。農家のほうでも文句を言ってねばられるより、さっさと出て行ってもらうためにすばやく握り米をくれるらしい、いわば嫌われることを特権にしてなりわいを立てているのだが、午前中に軽く一斗の米を集め、それを乞食宿が引き取る。引き取るといっても、品種の違うまぜこぜの米だからとひどい安値で、それをみなに食わせるのだが、老人はいっこう気にせず、午後からは五右衛門の一番風呂にはいって、うつらうつらしているのである。宿もここまで落ちるとどん底で、たとえあたりに屎尿の臭いが漂っていても、なんとも感じなくなる。おそらく、ぼく自身に屎尿の臭いが染みついてしまうからで、そうなるとみなも仲間扱いをしてくれ、結構気楽にいられるのだが、ただ虱が湧いてしばらくは行く先々で嫌われた。ぼくは蚊や蚤には辛抱しかねたものの、虱にはそれほど痛痒を感じないたちで、平然としていたからなお更だったかもしれない。

ぼくはまた気の向くままに、湯治場を兼ねた温泉宿によく泊まった。たしか温海[あつみ]だったと思うが、金のいりそうにない安宿を選んで風呂場に行くと、男湯女湯と脱衣場が二つに分けてできている。しかし、なかはひとつになっていて、浴槽にはいっていると、へんな婆さんが腰をかがめてはいって来たりするのである。いや、新潟の柏崎の旅館でこんなことがあった。風呂場に行くと、女性専用と書かれた札が懸けてある。なんだ、これは女湯じゃないかと言うと、案内の女は平然と札をとり、裏にかえして懸けなおした。すると、そこにはなんと男性専用と書いてあるのだ。とまれ、女は脱ぐときに羞恥を感じるので、脱いでしまうと平気になるのかもしれない。しかも、これが宮城作並の広瀬川の渓谷にある岩風呂のようなところになると、男女混浴でもなんの感じもなくなるから不思議である。

作並の旅館といえば、ぼくには思い出があった。左手に幾層もの湯治客のために建てられた長屋の灯を眺めながら、折れ曲がったながい屋根つき廊下の階段を降り、岩風呂につかったときはすっかり暮れていた。薄暗い電灯の中で、川水のせせらぎを聞き、いい気持ちになって座敷に戻ると、もう膳が運ばれていて、女が団扇で風を送ってくれながら酌をしてくれた。女はさして美人とも思えなかったが、しっとりとして感じがいい。ぼくより幾つか年上に見えたが、ぼくもまだ若かったから、そんなとしでもなかったであろう。

「きみも一杯どう」

そう言って盃を差し出すと、

「では、一杯だけ」

快く受けて盃を返した。

しかし、女はいける口ではないとわかったから、あえて強いることもしなかったが、問わず語りに夫を失って、小学生の子供をひとり里に置いている。来たい来たいと言ってるが、こんなことしてるから、来させたくても来させられないと言うのである。

「こんなことって、これも立派仕事だ。なにも、見られて困ることないじゃありませんか」

「それがそうもいかないんです」と、女は言って思いを決したように小声になった。「ついお喋りしてしまいましたね。夜もふけて来たのに、ちっとも涼しくならない。も一度、汗をお流しになりませんか、わたしもご一緒しますけど」

あれからどのくらいたったであろう。ぼくは作並のその旅館を訪れることになって、なにかむかしが甦って来るような懐かしさを覚えた。広瀬川の渓流もあの岩風呂も変わっているとは思えなかった。しかし、建物は現代風に改築され、組合を結成した女子従業員たちは湯治場の長屋を寄宿舎にして、整然と働くようになっていたばかりでない。朝食はバイキングのセルフサービスで、団体客の混みあう大食堂でとらねばならず、座敷に膳を運んでもらって、言葉には出さずそれとなく一夜の宿りのきぬぎぬの別れを、思いに秘める風情など望むべくもなかった。