「青酸加里(抜書) - 木々高太郎」日本の名随筆別巻78毒薬から

 

「青酸加里(抜書) - 木々高太郎」日本の名随筆別巻78毒薬から

斯う言ふわけで、青酸加里は探偵小説にも盛んに用ひられてゐるが、では一体どう言ふ風な特徴のある薬物であろう。僕は青酸加里を専門に調べたわけではないが、昔習つた薬物学の記憶から、特に興味があると思はれることを記録して見ると、青酸加里の正しい名はシアン化加里KCNであつて、青酸加里と言ふのは俗名である。何故なら、青酸と言へばシアン化水素HCNのことで、このものと加里とが結合してゐるわけではないからである。このシアン化水素は、シアン化物に酸を加へると遊離して、それに、臭気のある無色の液体で、僅かに二十六度の温度で沸騰する。この瓦斯が有毒なので、青酸加里は全く乾いてゐれば分解しないが、非常に潮觧性を持つてゐるので、不通の空気中でも炭酸のためにシアン化水素が遊離してゐるから、これを嗅ぐと中毒することがある。青酸加里を飲用して中毒するのも、青酸加里が体内ですぐに分解されて、シアン化水素を出すからであることは言ふまでもない。
この瓦斯の形のシアン化水素は、空気一瓦のうちに〇・二-〇・三ミリ瓦(即ち一万分の三)で即死する位の猛毒で、液状のシアン化水素は、内服で〇・〇六瓦で即死する。人間の体重は約五〇キロ瓦と見ると、非常に僅かで死んで了ふことがわかる。青酸加里であると致死量が〇・二五瓦である。其処で、計算をして見る。
問題は、浅草の喫茶店毒殺事件である。匂いだつて変な筈だから、いくら咽喉が乾いてゐたつて一口か二口飲んだら気が付いた筈だ。一体どの位飲んだんだらう、と言ふ話が、二三人集まると出て来る。まづ浅草の喫茶店ならば、珈琲茶碗の大さな、帝国ホテルの珈琲茶碗の大さよりは大きいに違ひない。これを仮りに一五〇立方糎(約一五〇瓦)であるとして、このうちに三・〇瓦だけ青酸加里が投げ込まれてあつたとすると、丁度二・〇%となる。この濃度の溶液は一瓦のうちに青酸加里〇・〇二瓦あるわけであるから一三瓦を飲むと致死量〇・二五瓦を含むことになる。十三瓦と言へば中位の酒杯二杯に等しく、まづ、珈琲を飲む時にはコップに口をつけて一と口と言ふところであらう。少しも咽喉が乾いてゐなくとも、珈琲茶碗に口をつけて一と口やる時には恐らくは単純な一と口ではなく、二〇瓦位はのむであらうから、喫茶店殺人事件でも、被害者は兎に角飲みさへしたら死ぬであらうと言ふ状況にあつたことになる。
この青酸の作用は、直ちに呼吸困難として現はれて来る。痙攣性の呼吸となり、遂に呼吸麻痺で死ぬ。呼吸麻痺は勿論呼吸中枢が侵されるために起るのであるが、単に呼吸麻痺だけであつたら、さう恐ろしくはない。人工呼吸をすれば、麻痺した呼吸中枢は徐々に恢復して来ることもある。スコポラミンと言ふ薬物は呼吸中枢だけを麻痺する薬物だから、スコポラミンを誤って大量用ひた時は、呼吸麻痺は起つても、人工呼吸を丹念にやればよい。五時間な七時間は、つづけて人工呼吸をやるだけの手配をしてやつてゆけば、そのうちに呼吸中枢からスコポラミンは放れて、自然の呼吸が出てくるから助かる。ところが、青酸の場合には、単に呼吸中枢だけが麻痺されるのではない。組織細胞も亦その作用を受けて窒息するのである。このことは生理学の実験でもわかる。きり出した組織の酸素を使用する能力を測定して、次に青酸加里を作用せしめると、少しも細胞が酸素を結合しなくなる。即ちすつかり酸素使用能力を奪はれて了ふ。従つてその組織の持つてゐる生活力がなくなり、筋肉なら収縮が出来なくなり、腺ならば分泌する能力がなくなる。
更に著しいのは、青酸の血液毒でもある。血液のうちにある赤血球は、肺から酸素を運搬して組織や臓器に与へると言ふ大切な役目をしてゐるが、これは赤血球の中にヘモグロビン(血色素)が存するためである。その血色素は、青酸に逢ふと、シアンヘモグロビンとなつて最早や酸素を結合しなくなる。だから血液のうちにも酸素が入らなくなるから、たとへ組織や臓器が酸素を使用する能力があつても、酸素を供給されないことにもなるのだ。このシアンヘモグロビンの色は鮮紅色であるから、これが青酸中毒死体の特徴で、鑑別の一の根拠となる。普通の死体は紫暗色の死斑を生ずるが、青酸中毒死屍は紅色の死斑を作るのである。
青酸の中毒でもう一つ特異なことは、中毒が斯く速やかに現はれて来るが、これは致死量以上であつた場合で、若し致死量以下であつた場合には、一時に重篤になるけれども速やかに恢復すると言ふことである。だから青酸の中毒は頗る決定的である。死ぬならすぐ死んで了ふが、死なぬ時は、ぐんぐん恢復する。これは、右のやうにヘモグロビンと結合するから肺から排出するのに都合がよいことがその理由の一つである。組織や臓器に結合して了ふと仲々出すのが困難であるが、ヘモグロビンと結合して血液の中にあると、これは血行がありさへすれば必ず肺を通るのであるから肺から出して了ふのに好都合のわけだ。もう一つは、速やかに体内の水流基SHと結合してロダン塩CNSといふ化合物となる。ロダン塩となると尿からどんどん出されるから、青酸は、あらゆる毒物のうちで排泄の極めて速やかなものに属する。排泄がすみやかであるから、或程度迄排泄が出来るまで身体の方が持ちこたへられれば、跡形もなく癒つて了ふ。毒物のうちでは、あとでいろいろの障害を残す奴もあるが、其処へゆくと青酸は気前がよいと言はなくてはならぬであらう。