「約束 ー リリー・フランキー」〆切本2 から
もう何年も、誰かと約束をした覚えがない。
誰でもそんなところだとは思うが、面と向かって「約束」も 思うが、面と向かって「約束」を交し合うという状況にあるというのは、なにかオトナの行為という雰囲気でもない。
しかし、なにかしら“約束めいたもの”ということからは社会生活をする人々は逃れることができないのである。
そして、その“めいたもの”を人は“約束した”と勘違いをしその末、約束を破られたと腹をたてるのである。
待ち合わせに遅れた。〆切りに間に合わなかった。
これは約束を守らなかったのではなく「間に合わなかった」という現象なのであり、相手を裏切ったこととはまるで異なることである。
時々、その現象に耐えきれなくなった編集者がこう言う時がある。
「明日の3時 !! 約束して下さい!!」。そして、 そして、ボクは言う。
「いやです。」
約束とはそんなに軽々しくするものではないのである。またその編集者の行為は、雪山に道離して山小屋の中、登山に誘った相手に対して「明日、雪が止むように約束して下さい」と言っているようなものだ。
現象は止められない。誰にも。
また、恋人同士の関係においても、この“約束めいたもの”が互いの信頼を混乱させていると言っていい。
「私はあなたと一生、一緒にいるわ」。これは一見、約束めいているが、実のところ単なる「希望」なのである。しかも一時的な。そして、男はそう言われたらこう返すしかない。 「俺もだ」
くどいようだが、これも約束ではない。約束を交したようにも受け取ることもできる会話だが、この「俺もだ」という言葉はお笑いでいうところの「なんでやねん」「おこるで、君!!」 に等しい。つまり、コールに対するレスポンスでしかない。
「あの時、そう言ったじゃない!!」。その後、弱者の立場に立たされた片方はそう言うだろう。 あの時「約束」をしたじゃないか、この嘘つきということになってしまう。
結局、人はほとんどの状況において「約束」などしていないのであり、約束という言葉がオトナ社会の日常で持ち出される時はすべて『都合と立場の悪くなった人」の切り札として持ち出されているのである。
「約束します」。この言葉をオトナになってから口に出す人は、サラ金の返済をせまられて苦しまぎれに言っているか、よほどいいかげんに「約束」という言葉を口に出し、もちろんその度、破っている人なのである。そして、逆に「できない約束はしない」という言葉をやたら自信を持って言う人もいる。
どんなに甘酸っぱい状況でも「できない約束はしない主義なの」と下らない主義を持っている人もいる。こういう人が一番約束の意味を知らない。