「まぜずし ー 幸田文」おいしい文藝 はればれ、お寿司 から

 

 

「まぜずし ー 幸田文」おいしい文藝 はればれ、お寿司 から

寒いうちは脂肪の濃いものや甘みの強いものがおいしいが、こう暖かくなってくると眼に爽やかなものや、酸っぱいものがほしくなる。家庭でつくるちらしずしなどは、 子供っぽい、女っぽいたべものだが、これには味以外にちょっとした思いが添っていないだろうか。少くも私には、あれをつくるときにも、たべるときにも、若さとか楽しさとか遊びとかいうところへ思いがつながる。
十六、七の若いときにもあれをこしらえようと思いたつと、おいしさ以外になにか気が軽く弾んだものである。弟と口喧嘩などしたあと、ぶすっと拒絶的な気持になっている折からでも、つまんないからおすしでもこしらえようかなと思うと、ひとりでに機嫌よくなって、いまさっき啀[いが]みあったばかりの弟へ、平然と突如、優しくしてやり、しかもそのゆえに姉の威厳を損じたとは思わないのである。まぜずしの威力である。
私が春になってすしづくと、閉口するのは酒のみの父親である。しょっちゅうたべさせられるものだから、「たまにはすしもいいものだ」と言う。こういうとき迂闊ではだめである。この種のさりげなき「たまには――」は、ざっと薙払いの太刀である。 かならず二の太刀があると覚悟しなくてはいけない。「折角つくるのにおまえのすしはちっとも上達しない。くろうとのと比較してみて、どこがどう違うか考えなさい」 と来る。
くろうとさんのは御飯のなかの具が少くて、上側に卵焼やまぐろ・蛤・さより・そぼろなどがきれいに並べてある。しろうとのは椎茸もかんぴょうも御飯へまぜこんで、 そのかわり化粧が貧弱にせいぜいもみ海苔と紅生姜だ。それで、うんとおごって、御飯のなかも化粧もごってりとやったら、なにせ甘酸っぱくてしつこくて、結局は程知らずのばかだと言われたが、父親はまいったらしかった。
そのころ、まぜずしをつくると不思議に来あわせてしまう、百目木[どめき]智運という坊さんの文学者があった。ほんとの偶然のめぐり合せにしかすぎぬが、きょうはまたすしだからと噂して待っていると、「ごめんください」と来るのである。坊さんだから食物をさしあげれば、かならず受けてたべる。私は百目木さんが私のすしを好きだと思い、「いつも来るたびにすしで気の毒だ」と父親は言う。こんなふうになるとへんな心づかいになるものである。とうとうある午後、すしを持ち出しながら私は、へへと笑ってしまった。笑ってから、しまったと思い、進退窮した。それをさすがに坊さんだ、(と父親があとでそう言った)「あっはっは」と笑って、すしの器を高く捧げ、 「御因縁のありますうちはどうぞいつまでも、伺うたびにおすしが頂戴できますよう。 ―――だがしかし、あなたは手まめですな。いや、だんだんと結構にいただきます」と言った。忘れがたい跡味である。偶然は人物の目方を量る秤である。