2/2「美醜についてー福田恆存」筑摩文庫“私の幸福論”から

ところで、こういうふうに裁かれているのは女だけではありません。男も同様に裁かれております。いくら残酷といおうが、なんといおうが、男と女とがはじめて出あうとき、電車のなかであろいが、路上てあろうが、たがいに見あった瞬間、それぞれに相手を裁いているのです。眼と眼を見かわしたとき、それがいわば「勝負あった」瞬間なのであります。若いひとたちのあいだでは、見合い結婚はどうのこうのという議論が相変わらずおこなわれているようですが、厳密にいえば、一歩そとに出た男女は、始終見合いをやっているようなものであります。しかも、この街頭における不意の見合いは、いわゆる準備された見合いよりも、ずっと純粋です。おたがいに素性も知らず、財産も学歴も知らず、それでいて、その場その場で、しきりなしに、「承諾」か「拒絶」かの返事を与えているのであります。
最近、ある外国の雑誌が、日本の女学生とアメリカの女学生とについて、結婚調査をしたそうでありますが、「どんな男にひかれるか」という問いに、アメリカの女学生は第一位に「健康な男」(二一パセント)、第二位に「人格の立派な男」(二十パセント)、第三位に「美男子」(十パセント)と答えているのにたいして、日本の女学生は、第一位が同じく「健康な男」(二五パセント)、第二位が「人格の立派な男」(一二パセント)「教養ある男」(一二パセント)、第三位が「筋骨たくましい男」(一一パセント)「頑健な男」(一一パセント)で、なかなか「美男子」というのは出てこない。ようやく最下位の一パセントに登場という結果だったそうであります。いかにつつましい日本の女性にしても、最下位の一パセントというのはすきなすぎます。この調査によると、日本の若い女性は、健康と人格としか考えていないようです。
かといって、かれらは男の美醜をまったく度外視しているわけではないでしょう。ただ、そんなものは度外視しなければならないような暗示を、どこかで与えられているのにすぎますまい。これは女ばかりではない。男のほうもおなじで、美しいということを、恋愛や結婚の理由にすることを、なんとなくはじる傾向があるのです。そして、人柄がいいとか、やさしいとか、そういう人格的な理由を表看板にしたがります。つまり、美醜という外面的なものより、人格という内面的なものに、心を動かされたというほうが、通りがいいとおもいこんでいるらしい。
顔の美醜は、生れつきのものだ。人格は努力でなんとでもなる。立派な人格は、その持主が称賛さるべきだが、美しい顔なんてものは、べつに持主の手柄ではない。反対に、下劣な人格については、その持主が責められるべきだが、醜い顔はその持主の責任ではない。したがって、美醜について論じるのは心なきことであり、美醜によって、人の値うちを計るのは残酷である。ひとびとはそう考えているらしい。
なるほど、美醜によって、人の値うちを計るのは残酷かも知れませんが、美醜によって、好いたり嫌ったりするという事実は、さらに残酷であり、しかもどうしようもない現実であります。それをかくして、美醜など二の次だということのほうが、私にはもっと残酷なことのようにおもわれるのです。もちろん、人格が努力でどうにでもなりうるものなら、その程度に、顔の美醜も持主の自由意思に属するものなのであります。同時に、美醜が生れつきのもので、どうにもならないものだというなら、おなじように、人格といわれるものも、どうにもなるものではなく、やはり生れつきのものだといえましょう。