「美醜についてー福田恆存」筑摩文庫“私の幸福論”から

美醜も、男女の幸福について論じるとき、ひとびとがあまり触れたがらない ー 正確にいえば、よく知っているのに触れたがらない ー 根本的な問題のひとつです。
身上相談などでよく見かけることですが、たとえば、男にだまされて棄てられたとか、夫が浮気をしてしようがないとか、そういう訴えを読むたびに、私はいつも一種のもどかしさを感じます。そのもどかしさというのは、一口にいえば、悩みを訴えるひとの顔が見たいということであります。顔を見なければ、とても答えられないという気がするのです。そういうとみなさんのうちには、ずいぶん残酷なことをいうやつだと抗議するかたがいるかもしれません。顔が醜ければ、夫に浮気されてもしかたはない、男に棄てられてもしかたはない、そういうにつもりなのかとおっしゃるでしょう。もちろん、それで男性側の非が、許されるわけのものではありませんが、そうかといって、醜く生れついた女性に生涯つきまとう不幸という現実を無視するわけにはいかないのです。いくら残酷でも、それは動かしがたい現実なのであります。いや、現実というものは、つねにそうした残酷なものなのであります。機会均等とか、人間は平等であるとか、その種の空念仏をいくら唱えても、この一片の残酷な現実を動かすことはできないのです。
しかし、身上相談係というものは、つねに人間平等、機会均等の立場からしか答えてくれません。つまり、女性という女性が、みんな同じ魅力をもって生れついているという仮定のもとに答えるのです。私のように意地わるく顔が見たいなどとは申しません。
ここで、私は以前よんだある女流随筆家の文章を想いだしました。そのひとはどこかの盛り場を散歩していた。すると、うしろから足早に歩いてきた若い男が追いこしざま、ちらっとそのひとの顔をのぞいたというのです。「こういうことは、路上でも、電車のなかでも、なにかの会合でも、つねに経験することだが」とその女流随筆家は書いておりました。「その瞬間、私は、若い男の面上に、軽い失望と軽蔑の色が浮ぶのを認めた」と。
この女性は私も知っているひとですが、御自分がそうおもいこんでいるほど醜い顔の持主ではない。その顔はむしろある種の魅力をもっています。真相は、おそらく、こういうことだったのでしょう。つまり、そのひとのうしろ姿が、すでに魅力のある顔にくらべても、あまりによすぎたのであろうとおもいます。
それはともかく、うしろ姿を見て、それを追いこして顔をのぞきたいという心理は、私が身上相談を読んで、質問者の顔を見たいといった気もちと、だいたい同じようなものであります。この女流随筆家は、そういう男性の態度を憎むと書いております。ただ顔をのぞきこむだけでなく、その瞬間、じつに遠慮会釈もなく「なあんだ!」という軽蔑の色を浮べ、その女性を、ただちに自分とは生涯かかわりのない女の部類に投げこんでしまう男のつめたさは、いくら憎んでも憎みたらないといっております。なるほど、私にも、この女性の怒りは理解できます。このばあいは路上だから、いくら美人でも、それなりに終ったことでしょうが、たとえば汽車のなかだったら、男の視線は、美しいとおもった顔には何度も執拗にからんでいくでしょうが、「自分とは生涯かかわりのない女の部類」に入れてしまった顔には、二度とふたたびもどっていかないでしょう。
だが、それはどうにもしようがないことなのです。男を憎んでもはじまらぬことなのです。人間は他の動物とちがって高級なのだから、そういう美醜にわずらわされないで、人格の値うちそのものを見ぬくべきだ。もし心ひかれるなら、そういう人格の本質にだけ、心ひかれるべきだ。そういいたいところだか、それこそ無理な註文というべきでしょう。
女性の雑誌を読むと、この種の無理な註文が随所に感じられます。もちろん、直接にそういうことはいわないかもしれません。しかし、たとえば、女が結婚して幸福になるためには、経済力、智力、いずれの面においても、相手の男と同等の力を維持していかねばならないということがよく書かれております。原理はそうかもしれませんが、事実上は、そういう独立した女性が、かえって不幸になっていることのほうが多いようです。智力があっても、醜さのゆえに男の心をつなぎとめえぬ女があり、智力があって、しかも男の心をつなぎとめている女があるとしても、そういうばあいでも、理由は、その智力にはなく、じつは、その美しさにほかならないのです。そういうものではないでしょうか。もっとはっきりいえば、経済力、智力の向上による女性解放を説く当の男自身が実生活では、けっきょく女の美しさに心ひかれ、自説を裏切っているのが通例なのではありますまいか。

 

ところで、こういうふうに裁かれているのは女だけではありません。男も同様に裁かれております。いくら残酷といおうが、なんといおうが、男と女とがはじめて出あうとき、電車のなかであろいが、路上てあろうが、たがいに見あった瞬間、それぞれに相手を裁いているのです。眼と眼を見かわしたとき、それがいわば「勝負あった」瞬間なのであります。若いひとたちのあいだでは、見合い結婚はどうのこうのという議論が相変わらずおこなわれているようですが、厳密にいえば、一歩そとに出た男女は、始終見合いをやっているようなものであります。しかも、この街頭における不意の見合いは、いわゆる準備された見合いよりも、ずっと純粋です。おたがいに素性も知らず、財産も学歴も知らず、それでいて、その場その場で、しきりなしに、「承諾」か「拒絶」かの返事を与えているのであります。
最近、ある外国の雑誌が、日本の女学生とアメリカの女学生とについて、結婚調査をしたそうでありますが、「どんな男にひかれるか」という問いに、アメリカの女学生は第一位に「健康な男」(二一パセント)、第二位に「人格の立派な男」(二十パセント)、第三位に「美男子」(十パセント)と答えているのにたいして、日本の女学生は、第一位が同じく「健康な男」(二五パセント)、第二位が「人格の立派な男」(一二パセント)「教養ある男」(一二パセント)、第三位が「筋骨たくましい男」(一一パセント)「頑健な男」(一一パセント)で、なかなか「美男子」というのは出てこない。ようやく最下位の一パセントに登場という結果だったそうであります。いかにつつましい日本の女性にしても、最下位の一パセントというのはすきなすぎます。この調査によると、日本の若い女性は、健康と人格としか考えていないようです。
かといって、かれらは男の美醜をまったく度外視しているわけではないでしょう。ただ、そんなものは度外視しなければならないような暗示を、どこかで与えられているのにすぎますまい。これは女ばかりではない。男のほうもおなじで、美しいということを、恋愛や結婚の理由にすることを、なんとなくはじる傾向があるのです。そして、人柄がいいとか、やさしいとか、そういう人格的な理由を表看板にしたがります。つまり、美醜という外面的なものより、人格という内面的なものに、心を動かされたというほうが、通りがいいとおもいこんでいるらしい。
顔の美醜は、生れつきのものだ。人格は努力でなんとでもなる。立派な人格は、その持主が称賛さるべきだが、美しい顔なんてものは、べつに持主の手柄ではない。反対に、下劣な人格については、その持主が責められるべきだが、醜い顔はその持主の責任ではない。したがって、美醜について論じるのは心なきことであり、美醜によって、人の値うちを計るのは残酷である。ひとびとはそう考えているらしい。
なるほど、美醜によって、人の値うちを計るのは残酷かも知れませんが、美醜によって、好いたり嫌ったりするという事実は、さらに残酷であり、しかもどうしようもない現実であります。それをかくして、美醜など二の次だということのほうが、私にはもっと残酷なことのようにおもわれるのです。もちろん、人格が努力でどうにでもなりうるものなら、その程度に、顔の美醜も持主の自由意思に属するものなのであります。同時に、美醜が生れつきのもので、どうにもならないものだというなら、おなじように、人格といわれるものも、どうにもなるものではなく、やはり生れつきのものだといえましょう。