「生まれ変わるためには死なねばならない - 河合隼雄」 新潮文庫 こころの処方箋 から

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「生まれ変わるためには死なねばならない - 河合隼雄」 新潮文庫 こころの処方箋 から
 
「生まれ変わった気持ちで、これからは頑張ります」などと言うときがある。自分の決意がなみなみならぬことを示すときには、「死んだつもりになって」などと言うこともある。本当に死んでしまったら、生まれ変わるのかどうか、はっきりしたことはわからないが、自分の内的体験としては、死んで生まれ変わったと表現したくなるような劇的な変化が生じることがあるのも事実である。
ある悩みのために来談し、心理療法を継続しているときに自殺未遂をされた人があった。それを機会にして、急激に悩みの解決が訪れてきたが、その後、その人が、「死ぬほどのところをくぐらなかったら、よくならなかったと思います」と言われたのが印象的であった。端的に表現すると、人間は生まれ変わるためには、死なねばならないのだ。と言って、それは身体の死に到ってはならず、あくまで象徴的に行わねはならない。
ある中堅サラリーマンが、仕事が面白くなくなって気持も沈むので会社に行く気がしないということで来談された。話を聴いてみると、それまで仕事が好きで面白く、バリバリとやってきたのに、最近、他の人たちよりも早く課長に昇進し、これからもっと頑張ろうと思っていたら、こんな状態になった、とのこと。これは、抑うつ症であるが、最近の中年の神経症として一番多いと言っていいだろう。話を続けて聴いていると、自分のような者は生きていても、他人に迷惑をかけるばかりなので、死んだ方がましだと言われる。抑うつ症で死にたいと言う人は多い。それに、実際に自殺することも多いので、気をちけねばならない。
しかし、ここで大切なことは、この人の自殺をとめることにばかり熱心になると、それは、この人の「死んで生まれ変わろう」とするせっかくの動きをとめてしまうことになる、ということである。従って、われわれとしては、自殺を単純にとめるのではなく、それを象徴的な「死と再生」への過程としてすすめてゆくことを - 実際の自殺を避けつつ - 援助することを考えねばならない。
このように考えるので「死にたい」と言われても、すぐにとめることをせずに、なおも話を聴くことにする。すると、自分は今まで与えられた仕事を確実に、少しの狂いもなくやりこなしてきたが、自分が課長になってみて部下たちを見ると、実にいい加減な人間がいる。そのような部下に注意しても、なかなかよくならない。あんなにサボる人間は他から嫌われるだろうと思っていたら、あんがい、同僚の受けもよくて、不思議な気がする。しかし、考えてみると、自分も課長になって、仕事が急に増えたため、部下のことまでいちいち気を使っていると手がまわらなくなり、これまでような完全な仕事ができなくなった。やっぱり、こんなことでは会社に申訳ないので、自分のようなものはこの世に居ない方がよいのではないか。
話が結局は自殺の方に向かってきて、話を聴いても仕方ないように思えるがそうではない。このようなことを語りながら本人は自分の抑うつ症を考える上で重大な鍵となることを語っているのである。つまり、それまでは、コツコツと与えられた仕事をやってきた人が、課長となったため、それまでの生き方のパターンを変えねばならぬ節を迎えているのだ。課長ともなれば、自分の生き方とは異なる人間を部下にもち、もっと広い立場から全体的にものを見ることが必要である。この「自分を変える」ことが非常に苦しいので、仕事が面白くないとか、死にたいとか、の気持がでてくるのである。
自殺の実行を防ぎながら、前述のような苦しい話合いを続けているうちに、本人がだんだん気づいてきて、あのいい加減に生きていると思っていた部下も、仕事はルーズだが他人に思いやりのあるところがいい、などと言い出される頃には、だんだんと抑うつ症から抜け出して行かれる。
このような人がよくなられたときに、「死にたい死にたい、と言っておられましたが、いったい自分のなかの何が死んだのでしょうか」などと問いかける時もある。堅い自分が死んで、少し柔軟性がでてきた、などと答えた人もある。あるいは、崖の途中で草にしがみつき、何とか上へ登ろうともがき苦しんでいたが、思い切って両手を離すと、何のことはない草地に軟着陸し、そこには新しい世界がひろがっていた、と答えた人があって、感心させられた。もっとも、両手を離したら奈落に向かって墜落ということもある。いつもいつも同じ方法が成功することはないのを、われわれはよく知っていなくてはならない。象徴的な死と再生の過程の背後には、実際の死が存在しているのである。肉体的死を回避しつつ、象徴的死を成就することが必要で、ただただ「死」を避けていたのでは何事も成らないのである。