「寿命がきたら旅立てる覚悟 - 斎藤茂太」集英社 骨は自分で拾えない から

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「寿命がきたら旅立てる覚悟 - 斎藤茂太集英社 骨は自分で拾えない から

私たちは日常何気なく行なっていることが、実は大変価値のあることに気がつくことがある。ふつう、健康なときは健康のありがたさには無頓着なことが多い。健康であることが当たり前だと思っているのである。ところが、病気をしてみて初めて健康というものがどれほどありがたいものかよくわかる。
立ったり、座ったり、歩いたりするのは、壮健な者なら何のことはない、できて当たり前であろう。しかし、歩けぬ人にとってはどんなに願ってもかなわぬ夢なのである。そうなってみると、歩けるということがどれほどの価値を持っているかわかるであろう。
生きているというのも、私たちは当たり前のことだと思っている。当たり前だと思っているから、ついつい何ということもなしに漫然と生活する。差し迫ったことがなければ、ダラダラとテレビを見たり、お茶を飲んでおしゃべりして時を過ごしてしまう。
しかし、その時は刻々と迫っているのである。そんなとき、私たちはいったいどのような顔をしているのだろうか。
長生きしている人がテレビで紹介されることがある。この人たちの話を聞くと、毎日毎日を自分なりに楽しく、規則正しく生きてきた積み重ねの結果だということが多い。そしてその根底にあるのは、いつでもいつ死んでもいいという気持ちのようだ。
そのためにも、今日をよく生きることを心がけ、日々を充実させて過ごしているという。ある程度の年齢になると、目標を立てるよりも、覚悟を決めるほうが重要になるのではないかと思った。人は、ただただ長く生きてやろうなどといった気持ちをもっていると、それ自体がストレスになりかねない。
仮に、どんなに注意した生活を送っていても、人間にはやはり寿命というものがある。長くこの世にあって、人々の役に立ちたいと思う気持ちを持っていたとしても、片方に寿命がある限り、臨終のとき、志半ばで倒れることになるかもしれない。これではこの世に未練が残ることになる。
だったらいっそのこと、明日死んでもいいくらいの覚悟でいたほうがいい。覚悟といっても、武士が切腹を考えるように重々しいものではない。もっとあっさりした、「笑って死ねる気持ち」といった程度のものだ。
きんさん・ぎんさんではないが、そうした人たちの顔を見ていると、それだけで心が安心できるような気がする。そうした笑顔は持って生まれたものではないし、ある日突然できたというものでもあるまい。日々を笑って暮らしているうちに自然な表情ができたものと思われる。それは長生きしたからではなく、明日死んでも悔いはないという覚悟ができ、日々を笑って過ごしているうちに身についたものだろう。覚悟の先には、それぞれの悟りのようなものもあるに違いない。

(ここまでにしました。)