「猫の近道を訪ねて〈吾輩は猫である〉ほか ー 阿刀田高」漱石を知っていますか から
「ニャーオン」
ある日、ある時、猫の鳴く声を聞いて夏目漱石は心を和[なご]ませただろうか、それとも苛立たせた
だろうか。これがむつかしい。
明治三十八年(一九〇五)ごろ、漱石はアラフォーにあっておおいに思い悩んでいた。学者としては知識も評価も充分に恵まれていたが、
――小説家になりたいんだよなぁ――
英文学者として限界を感じ・・・ノウ、ノウ、それよりもなによりも小説を綴ることへの魅力や適性を思案して、レベルの高い試行錯誤を繰り返していた。(幻影の盾〉〈琴のそら音〉 〈薤露行[かいろこう]〉 などなど趣向の異なる短編小説を書いてみたが、手応えが薄い。ようやく〈吾輩は猫である〉を発表して大成功、本格的に小説家への道を歩み始めた。
その〈吾輩は猫である)は(少し長いタイトルなので、このエッセイでは多く〈描〉と示すつもりだが)とりあえず〈ホトトギス〉という俳句雑誌に三十枚ほどを載せ、
「いいじゃないか」
「もっと書いたらいいよ、このでんで」
仲間たちに褒められ、これを第一章とし、後を書き続けて第十一章まで、今日に残る〈描〉となった。〈ホトトギス〉は正岡子規や高浜虚子が主宰した俳句雑誌であり、当時の優れた文学者が集まっていた。〈猫〉は小説であったが、この仲間うちの好評から発して、その周辺のインテリ層に広がった、という事情である。
第一章の第一行目は、
“吾輩は猫である。名前はまだない”
と親しみやすく、たいていの人が知っている。
世界文学にはカフカの名作(変身)があって、これは“ある朝グレーゴル・ザムザが目ざめると一匹の巨大な虫になっていた”と、冒頭の一行はよく知られているけれど、その後ザムザがどうなって、作品の最後がどうなのか、あまり知られていない。
あははは。〈描〉にもそんな傾向がないでもない。きちんと読んでいる人は少ない。この傾向を補って大急ぎで中身をたどっていけば生まれてまだそう日数のたっていない野良猫は書生に拾われ、また捨てられ、苦しまぎれに竹垣の崩れた穴から、ある家の邸内に潜り込んだ、のである。この家こそが〈猫〉の中心舞台であり、家の主人が苦沙弥[くしゃみ]先生、中学校の英語教師であった。中学の英語教師が今日の大学教授くらいの立場であったこともあわせて知っておいていただきたい。そして、この苦沙弥先生を中心に家族、友人、知人、周辺の人々の生活と思案と弁舌がページを満たしていく。
苦沙弥先生はいつも書斎にこもり、大変な勉強家と思われているが、たいていは昼寝をして読みかけの本によだれをたらしている。胃弱で弾力のない黄色い肌、そのくせ大食いで、大食いののち胃薬を飲み、また眠る。猫が思うに、
“人間と生れたら教師となるに限る。こんなに寝ていて動まるものなら描にでもできぬことはないと。それでも教師ほどつらいものはないそうで彼は友達が来る度になんとかかんとか不平を鳴らしている。”
なのだ。クリティカルに人間社会を見る猫、これが〈描〉の特徴であり、小説といいながらストーリーらしいストーリーはなく、観察と描写と博識のおもしろさ、それが身上と考えてよい。
私事ではあるが、過日、劇団四季のミュージカル(キャッツ)を見て、
ー猫って、ずいぶん偉いんだなあー
鼻白んだが〈猫〉の猫はそれどころではない。明治期の一大知性の持ち主。苦沙弥先生が漱石自身のカリカチュアであるのに対し、猫の見識もまた、もう一人の夏目漱石である。鋭い英知を備え、皮肉な批評を発する存在だ。これに加えて苦沙弥先生の家にはいろいろな人が出入りしてたとえば案内もなく勝手に入って来るのが迷亭という男、苦沙弥とは大学の同級生で美学が専門らしいが、話はおもしろく、ジョークや作り話を飛ばすくせもある。
苦沙弥の昔の教え子、若い寒月をしきりに現われ、珍妙な話を披露する。その友人の越智東風など、あれやこれや書斎に集まって談笑し、障子の向こうでは苦沙弥夫人が聞いていたりして、 だれが首をそろえているのか、わかりにくいページも多い。
猫も聞き耳を立て、思案をめぐらし、それなりに適応しているが、それとはべつに猫仲間との交流も一応は描かれている。二絃琴のお師匠さんのところへ飼われている美しい三毛子、 車屋に飼われている暴れん坊の黒、ほのかな慕情やねずみ捕り談義など、おもしろいページもあるのだが、小説が進むにつれ、こういう記述は少なくなっていく。主眼はやはり人間たちだ。
その一端を第二章から(解説を入れ、省略を混ぜながら)引用して示せば、まず迷亭が、
「たしか暮の二十七日と記憶しているがね」
母から来た手紙の返事を出そうと考え、
「留守中に東風が来たら待たせておいてくれ」
と告げて散歩に出かけた、と思し召せ。
“「いつになく富士見町の方へは足が向かないで土手三番町の方へわれ知らず出てしまった。その晩は少し曇って、から風がお濠のむこうから吹き付ける、非常に寒い。大変淋しい感じがする。 よく人が首を縊[くく]るというがこんな時にふと誘われて死ぬ気になるのじゃないかと思い出す。ちょいと首を上げて土手の上を見ると、いつの間にか例の松の真下に来ているのさ」
「例の松た、なんだい」
「土手三番町の首かけの松さ。なぜこういう名が付いたかというと、昔からの言い伝えで誰でもこの松の下へ来ると首が縊りたくなる。土手の上に松はなん十本となくあるが、そら首織りだと来て見ると必ずこの松へぶら下がっている。年に二三べんはきっとぶら下がっている。見ると、 うまい具合に枝が往来の方へ横に出ている。ああいい枝ぶりだ。あのままにして置くのは惜しいものだ。どうかしてあすこのところ(人間を下げて見たい、誰か来ないかしらと、あたりを見渡すとあいにく誰も来ない。仕方がない、自分で下がろうかしらん。枝(手をかけてみるといい具合にしわる。しわりあんばいが実に美的である。首がかかってふわふわするところを想像してみると嬉しくてたまらん。ぜひやることにしようと思ったが、もし東風が来て待っていると気の毒だと考え出した。それではまず東風に会って約束通り話しをして、それから出直そうという気になってついにうちへ帰ったのさ」
「それで市が栄えたのかい」と主人が聞く。
「面白いですな」と寒月がにやにやしながら言う。
「うちへ帰って見ると東風は来ていない。今日はよんどころなき差支があって出られた、何れ永日ご面会を期すという葉書があったので、やっと安心して、これなら心置きなく首が縊れる嬉しいと思った。で早速下駄を引きかけて、急ぎ足で元の所へ引き返してみる…………」と言って主人と寒月の顔を見てすましている。
「みるとどうしたんだい」と主人は少し焦れる。
「いよいよ佳境に入りますね」と寒月は羽織の紐をひねくる。
「見ると、もうだれか来て先へぶら下がっている。たった一足違いでねえ君、残念なことをしたよ。今考えるとなんでもその時は死神に取り着かれたんだね。ゼームスなどに言わせると副意識下の幽冥界と、僕が存在している現実界が一種の因果法によってたがいに感応したんだろう。実に不思議な事があるものじゃないか」迷亭はすまし返っている。
主人はまたやられたと思いながらなにも言わずに空也餅を頬張って口をもごもごいわしている”
と、こんな調子である。
文中に“市が栄えた”とあるのは、昔話を終えるときの決まり文句。“めでたし、めでたし”と同類の文言だ。こんなからかいを入れながら書斎の会話は弾んでいく。苦沙弥先生は無口のときが多いが、みんなはよく喋る。饒舌を軸とした小説なのだ。ついでに言えば"ゼームス”とあるのはウィリアム・ジェイムス(一八四二~一九一〇)なるアメリカの心理学者。〈ねじの回転〉 などで知られるヘンリー・ジェイムスの兄であり、ここに示されている学説は、もう少しやさしく言えば〝副意識(潜在意識のこと)に宿る冥界と、私たちが感知する現実世界とが、ある因果律によって通じ合っている”ということ、つまり潜在意識に入り込めば冥界と現世は(迷信や空想ではない)歴とした因果の法則によってつながっているのであり、これは漱石がそれなりに信じていたことであった。ほかの作品、たとえば〈夢十夜〉の第三話などは先祖の犯した殺人が潜在意識として宿り、主人公の現実に現われた、と見ることもできるだろう。
ともあれ、この作品に表われる饒舌はレベルが高く、落語の八っつぁん熊さんの会話のような調子を混えながら、まことに、まことに◎げん学的なのだ。ちょっと偉そうで・・・「そこが厭[いや]だ」という読者がいてもおかしくはない。
話を戻して・・・・・・若い寒月もみずからの奇っ怪な体験を語り始める。彼は○○子と知り合いで 「当人の迷惑になるかもしれない」ので名前は明かせないが、ほのかに心を寄せあっているのかどうか、○○子が重い病気にかかって熱をだし、うわごとで寒月の名を口走っているらしい。寒月は大変なショックを受け、その噂を聞かされた帰り道、吾妻橋へかかると、周囲はまっ暗、人の気配もなく、川面もまっ黒。はるか川上で名前を呼ばれたような気がして、これが二度、三度 ………………水の底から聞こえる。確かに○○子の声。「はーい」と答えると、その返事が大きかったせいか弾ね返り、妙な気分に襲われてしまう。自分が夜の気配に巻き込まれ、
――あの声のところへ行きたい―
ムラムラと気分が高じる。さらに呼ぶ声はせつなくなり、救いを求めているみたい。
「今、すぐに行きます」
と欄下から身を乗り出し、糸のように浮く声を目がけてトーン・・・・。
「飛び込んだのかい」 と苦沙弥が眼をばちつかせ、迷亭はあきれるが、
「飛び込んだあとは気が遠くなり……………どこも濡れていないし、水も飲んでいない」
なんと、川へ飛び込んだつもりだったのに、前とうしろをまちがえ橋のまん中へ飛び転げてた・・・・・・というお粗末。
替って苦沙弥が自分の奇談を語ったが、それは省略して肝要なのは、寒月に恋の気配が漂ったみたい・・・。
それに応えるように第三章に入ると、玄関のベルが鳴り、
「ごめんなさい」
と女の声。ここへ女性の来客はめずらしい。
いきなり入って来たのは、近所に住む金満家、その名も金田家の令夫人、夫はいくつもの会社の重役を務める凄腕で、家は西洋館の倉を備えて威風堂々。が、苦沙弥先生はこの手のことには無関心、無頓着。居あわせた迷亭は「知ってるとも」と言い、迷亭の伯父は男爵で、過日の園遊会でも金田氏とは顔を合わせ、親しい仲なのだとか。(これは全部うそなのだが)それを聞いて金田夫人は迷亭には敬意を示したが、苦沙弥先生に対してはいたく権高で、上から目線で接している。不思議な顔つきの女で、とりわけ鼻が大きい。ゆえに猫は(作品の中では)鼻子と呼ぶことになるのだが、その鼻は“人の鼻を盗んで来て闇の真中(据え付けたように見える。三坪程の小庭へ招魂社の(つまり、やたら大きい)石燈籠を移した時のごとく、独りで幅を利かしているが、なんとなく落ち付かない。いわゆる鍵鼻で、ひとたびは精いっぱい高くなってみたが、これではあんまりだと中途から謙遜して、先の方へ行くと、初めの勢いに似ず垂れかかって、下にある唇を覗き込んでいる。かく著しい鼻だから、この女が物を言うときは口が物を言うといわんより、鼻が口をきいているとしか思われない”なのである。充分にきつい悪口であり、この先も、 この女や金田家の俗物ぶりは、
―――漱石先生、少し言い過ぎじゃないですか―
と心配になるほど。晩年の漱石ならこうは書くまい。仲間たちと大衆への受け狙いがあったのかもしれない。
だが、それはともかく、金田夫人の来訪の用件は、寒月についての情報をえること。金田家の娘の結婚相手として寒月の名があがっているらしく、母親が探索にやって来たのだ。
―――寒月が語っていた○○子さんは、この娘なのだろうか―
二人のあいだには、なにかしら苦沙弥や迷亭が知らないことがあるらしい。その娘が重い病気にかかり、水の底から寒月を呼んだとなると、ただごとではない。鼻子は寒月が博士になれるかどうかを気にしているようだが、こんな厭な女から、こんなことを尋ねられて苦沙弥先生その他が色よく答えるはずもない。鼻子の調査はさんざんのていとなるが、しばらくは寒月問題が作品のあちこちを占めるようになる。理学士の寒月が進めている珍妙な実験のこと、金田家の様子その令嬢・富子と寒月の関係について、苦沙弥の書斎ではあれこれ半畳を入れながら語り語られていく。猫も金田家の探索など余念がない。
ここに鈴木藤十郎なる紳士が登場して、彼は苦沙弥、迷亭と学生のころからの友人で、今は実業界にあって鼻子の夫とも親しい。金田夫婦としてはこの人を苦沙弥たちのところへ送って寒月についての情報を集めたい。
―――本当に寒月さんは博士論文を書くのかしら――
鈴木の来訪に対しても苦沙弥はあい変わらず屁理屈を弄しているが、若い二人が好きあっているなら、邪険にばかりはしていられない。とはいえ実の弟より親しんでいる寒月を鼻子の女婿してよいものか、迷亭にも煮えきらないところがある。とにかく寒月が博士論文に手を染めたらしい、と、これは文句なしにめでたし、めでたしたのだ。
苦沙弥先生は漱石自身をモデルにしたもの、とも言われる。英語に堪能で、知識も広く、気むつかしそうに見えるが、親しい知己もいる。生活の方法も似ているし、なによりも胃弱、これは一致している。しかし、これはもちろん自己批判や韜晦[とうかい]やユーモアを混ぜあわせて描いたカリカチュアと見るべきだろう。
ある日、あるとき、故郷の肥前から山の芋をみやげに上京した旧知の後輩・多々良三平との会話では、苦沙弥先生のいわく、
「教師は嫌いだが、実業家はなお嫌いだ」
「嫌いでないのは奥さんだけですか」
と冗談を呟く。
「一番嫌いだ」
と、まあ、これは世にある亭主の繁く呟くところだが、苦沙弥と奥さんはしっくりとした仲ではない。
ひるがえって漱石と、その妻・鏡子との仲は微妙であり、ここでは軽々に述べないが、トラブルも多く、しっくりとはしていなかっただろう。苦沙弥には三人の娘があり、上から順に、とん子、すん子、めん子、である。漱石も〈猫〉執筆のころには、たて続けに三人の娘をえており、 男子の純一、伸六の誕生はこの後のことである。
話を作品に戻して・・・・・・名なし猫が、こんな苦沙弥一家の日常を語るうちに、夜更けて、ぬき足、 さし足、しのび足、泥棒の到来。家中がぐっすりと寝入っている。この泥棒がなぜか寒月そっくりの美男子で、名なし猫は、神はすべての人間を千差万別に創り、そこが偉い、と思っていたのだが、むしろ同一のものを創るほうがむつかしいのではあるまいか。猫は考え直して、
“神は猫も杓子も同じ顔に造ろうと思ってやりかけてみたが、とうてい旨く行かなくて出来るのも出来るのも作り損ねてこの乱雑な状態に陥ったものか、わからんではないか。彼等顔面の構造は神の成功の記念と見らるると同時に失敗の痕跡とも判ぜらるるではないか。全能とも言えようが、無能と評したってさしつかえはない。彼等人間の眼は平面の上に二つ並んでいるので左右を一時に見る事が出来んから事物の半面だけしか視線内に入らんのは気の毒な次第である。立場を換えて見ればこのくらい単純な事実は彼等の社会に日夜間断なく起りつつあるのだが、本人はのぼせ上がって、神に呑まれているから悟りようがない。製作の上に変化をあらわすのが困難であるならば、その上に徹頭徹尾の模倣を示すのも同様に困難である。ラファエルに寸分違わぬ聖母の像を二枚かけと注文するのは、全然似寄らぬマドンナを双幅見せろと迫ると同じく、ラファエルにとっては迷惑であろう、いな、同じ物を二枚かく方がかえって困難かも知れぬ。弘法大師に向って昨日書いた通りの筆法で空海と願いますと言う方がまるで書体を換えてと注文されるよりも苦しいかもわからん。”
これは漱石より五十年ほど遅れてはやった実存主義的思考…つまり神の失敗を解弾する論法ではないか。
泥棒は多々良がもたらした山の芋を貴重品と睨んで盗み出し、明けて翌日、苦沙弥邸は警察の調べを受けて大わらわ。再び現われた多々良は、夫人を相手に、
「この猫が犬ならよかったに。奥さん、大のふとかやつ飼いなさい。猫は駄目ですばい。飯を食うばかりで。ちっとは鼠でも捕りますか」
「一匹もとったことありません。横着で、ずうずうしい猫ですよ」
「そりゃ、どうもこうもならん。早々捨てなさい。私がもらっていって煮ておうかしらん」
「あら、多々良さんは猫を食べるの」
「食いました。猫はうもうございます」
剣呑、剣呑。名なし猫としては、これまで多々良になんとなく好感を抱いていたのだが、評価が少し変わった。
が、、それとはべつに、この会話の影響もあって、名なし猫も鼠を捕ることを考える。
作戦開始。台所に三つの穴があり、駅はどの穴から現われるか。折しも日露海戦、バルチック艦隊が対馬海峡を通るか、津軽海峡へと向かうか、はたまた宗谷海峡をめぐるか、智将東郷平八郎の英断が勝利につながり、日本国中が湧き立っていた。名なし猫もまた三つの穴に思案をめぐらし、作戦を立てたが、現われた二匹に翻弄され、棚の上から転げ落ちる。苦沙弥先生が飛び起きて、
「泥棒!」
と叫び、
「なんだ! だれだ、大きな音をさせたのは」
と怒鳴る。
東郷の晴れ姿とはほど遠い結末となった。
ああ、そう言えば、多々良も金田家の依頼を汲み、寒月の人となりを探りに来たのだった。
第六章へ入ると、
“ こう暑くては猫といえどもやりきれない”と苦情を述べ、人間たちの生活批評が始まる。
“頭の毛などというものは自然に生えるものだから、放って置く方がもっとも簡便で当人のためになるだろうと思うのに、彼等はいらぬ算段をして種々雑多な恰好をこしらえて得意である。坊主とか自称するものはいつ見ても頭を青くしている。暑いとその上へ日傘をかぶる。寒いと頭巾で包む。これではなんのために青い物を出しているのか主意が立たんではないか。そうかと思うと櫛とか称する無意味な鋸ようの道具を用いて頭の毛を左右に等分して嬉しがってるのもある。 等分にしないと七分三分の割合で頭蓋骨の上へ人為的の区劃を立てる。中にはこの仕切りがつむじを通りこして後ろまではみ出しているのがある。まるで贋造の芭蕉葉のようだ。その次には脳天を平らに刈って左右は真直に切り落す。丸い頭へ四角な枠をはめているから、植木屋を入れた杉垣根の写生としか受け取れない。この外五分刈、三分刈、一分刈さえあるという話だから、しまいには頭の裏まで刈り込んでマイナス一分刈、マイナス三分刈などという新奇な奴が流行するかもしれない。とにかくそんなに憂身をやつしてどうするつもりかわからん。第一、足が四本あるのに二本しか使わないというのから贅沢だ。四本であるけばそれだけはかも行くわけだのに、 いつでも二本ですまして、残る二本は到来の棒鱈のように手持無沙汰にぶら下げているのは馬鹿々々しい”
と猫の論評はあちこちへ飛ぶ。やがて迷亭が現われ、屋根の上で玉子を焼いた話をしたり、最近入手したパナマ帽や新式の鋏の自慢、そのうえこの男、他人の家へ訪ねて来るのにあらかじめ、 そばの出前を頼んでおく、という無頓着さ。さらに「うどんは馬子が食うもんだ。そばの味を解しない人ほど気の毒なことはない」と、そば礼讃をして、その食い方にも入念な作法を示す。寒月も現われ、博士論文はなかなか進捗しないみたい。迷亭がみずからの失恋を語り始め、 「ある年の冬のことだが、僕が越後の国は蒲原郡筍谷[たけのこだに]を通って蛸壺峠へかかって、これからいよいよ会津領へ出ようとするところだ」
と、まことしやかである。道に迷い、日は暮れて、訪ねた先は峠の一軒屋。爺さんがいて婆さんがいて、もう一人、文金高島田のものすごい美人。ご馳走は蛇めしで、鍋の中に蛇を入れて煮立て、蓋にうがった穴から首を出すところを娘がグイと引き抜くと、骨だけが抜け、身は鍋の中へ、飯と混ぜると、これがうまいのなんの「あの味ばかりは生涯忘れられませんぜ」なのだ。すっかり満足して寝込み、翌朝、起きて外を見ていると、やかん頭が水辺で顔を洗っている。よく見ると、これが昨夜の美人。顔を洗い終わると、かたわらの鬘[かつら]を、高島田の鬘を無造作にかぶて………………すまし顔。迷亭のいわく、
「なるほど、と思ったものの、これが失恋のはかなき運命をかこつ身となってしまった」
続けて知人のエピソードを語り、寒月も昨今の女性たちに言及し、さらに芸術論に発展し、“俳劇”という新しいジャンルまで提案する。すなわち俳句を劇にしたようなもので、当然短い。その趣向は、それなりの舞台を造ったところへ“花道から俳人高浜虚子がステッキを持って、白い燈心入りの帽子を被って、透綾[すきや]の羽織に、薩摩飛白[さつまがすり]の尻ぱしょりの半靴というこしらえで出てくる。着付けは陸軍のご用達みたようだけれども俳人だからなるべく悠々として腹の中では句案に余念のない体で歩かなくっちゃいけない。それで虚子が花道を行き切っていよいよ本舞台にかかった時、ふと句案の眼をあげて前面を見ると、大きな柳があって、柳の影で白い女が湯を浴びでいる、はっと思って上を見ると長い柳の枝に烏が一羽とまって女の行水を見下ろしている。そこで虚子先生おおいに俳味に感動したという思い入れが五十秒ばかりあって、行水の女に惚れる烏かなと大きな声で一句朗吟するのを合図に、拍子木を入れて幕を引く。どうだろう。こういう趣向は。御気に入りませんかね、となる。この俳句“行水の女に惚れるかな”は、実際に虚子が明治三十八年に創ったものであり、この〈描〉の執筆のほんの少し前のこと、リアルタイムでこんなトピックスが作品の中に登場するところが特徴の一つでもある。たったいま引用した迷亭のだめしの話も、
「僕のも大分神秘的で、故小泉八雲先生に話したら非常に受けるのだが、惜しいことに先生は永眠されたから、実のところ話す張合もないんだが、折角だから打ち開けるよ。そのかわりしまいまぐ謹聴しなくっちゃいけないよ」と前置きが示されていて、八雲は明治三十七年の死であり、著名な怪談は激石の周辺で現実に語られていたにちがいない。さらに同席している東風が今の詩人を評して「先達[せんだっ]ても私の友人で送籍という男が〈一夜〉という短篇をかきましたが、 誰が読んでも朦朧として取り留めがつかないので、当人に会ってとくと主意のあるところを糺して見たのですが、当人もそんなことは知らないよといって取り合わないのです。全くその辺が詩人の特色かと思います」と言い、送籍はもちろん漱石を思わせずにおかないし、(一夜〉もまた漱石が少し前に書いた短編なのである。仲間たちの日常のエピソードがそのまま作品の中に現われ、 みんなで頷きあっているみたい・・・・・・。
第七章に入ると『吾輩は近ごろ運動を始めた」とあって、猫の運動はなにかといえば、まずかまきり狩り。庭に住むかまきりを探しあて、これを観察し、戦って倒す。次に取り、その戦さぶりを入念に語ったあと鳥との戦いに移り、さらにそのあとは横町の銭湯への見学、その考察へと変わる。猫はカーライルの〈衣裳哲学〉にも通じており、衣服こそ人間存在の基であると訴える立場である。それは人間が衣服か、衣服が人間かというくらい重要な条件である。人間の歴史は肉の歴史にあらず、骨の歴史にあらず、血の歴史にあらず、単に衣服の歴史であると申したいくらいだ。だから衣服を着けない人間を見ると人間らしい感じがしない。まるで化物に◎◎したようだ。化物でも全体が申し合せて化物になれば、いわゆる化物は消えてなくなるわけだからかまわんが、それでは人間自身が大いに困却することになるばかりだ。その昔、自然は人間を平等なるものに製造して世の中に放り出した。だからどんな人間でも生れるときは必ずが赤裸である。 もし人間の本性が平等に安んずるものならば、よろしくこの赤裸のままで生長してしかるべきだろう。しかるに赤裸の一人が言うにはこう誰も彼も同じでは勉強するかいがない。骨を折った結果が見えぬ。どうかして、おれはおれだ誰が見てもおれだと言うところが目につくようにしたい。 それについてはなにか人が見てあっとたまげる物をからだにつけてみたい。なにか工夫はあるまいかと十年間考えてようやく猿股を発明してすぐさまこれを穿いて、どうだ恐れ入ったろうと威張ってそこいらを歩いた。これが今日の車夫の先祖である」と、衣裳の歴史をたどり、これは猿股期、羽織期、袴期と進展した、と猫の学説だから適当につきあっておけばよろしいだろう。さながら庶民生活の見本のような銭湯内風景が紹介されたあと大声が聞こえ、見れば猫の主人なる苦沙弥先生の姿。浴場のトラブルは少し続いたが、
“帰って見ると天下は太平なもので、主人は湯上がりの顔をテラテラ光らして晩餐を食っている。 吾輩が縁側から上がるのを見て、のんきな猫だなあ、今頃どこをあるいているんだろうと言った”
それから主人は奥方を相手に、
「おい、その猫の頭を撲[ぶ]ってみろ」と主人は突然細君に請求した。
「撲てば、どうするんですか」
「どうしてもいいからちょっと撲ってみろ」
こうですかと細君は平手で吾輩の頭をちょっとたたく。痛くもなんともない。
「鳴かんじゃないか」
「ええ」
「もういっぺんやってみろ」
「なんべんやったって同じ事じゃありませんか」と細君また平手でぼかと参る。やはりなんともないから、じっとしていた。しかしそのなんのためたるやは智慮深き吾輩にはとんと了解し難い。 これが了解出来れば、どうかこうか方法もあろうがただ撲ってみろだから、僕つ細君も困るし、 撲たれる吾輩も困る。主人は二度まで思い通りにならんので、少々焦れ気味で「おい、ちょっと鳴くようにぶってみろ」と言った。
細君は面倒な顔つきで「鳴かしてなんになさるんですか」と問いながら、またびしゃりと御出になった。こう先方の目的がわかればわけはない、鳴いてさえやれば主人を満足させることは出来るのだ。主人はかくのごとく愚物だから厭になる。鳴かせるためなら、ためと早く言えば二へんも三べんも余計な手数はしなくてもすむし、吾輩も一度で放免になる事を二度も三度も繰り返えされる必要はないのだ。ただ打ってみろという命令は、打つ事それ自身を目的とする場合の外に用うべきものでない。打つのは向うのこと、鳴くのはこっちのことだ。鳴くことを始めから予期してかかって、ただ打つという命令のうちに、こっちの随意たるべき鳴くことさえ含まってる
ように考えるのは失敬千万だ。他人の人格を重んぜんというものだ。猫を馬鹿にしている” と反抗してみたもののサービス精神もあって「にゃー」と鳴けば、
「今鳴いた、にゃあという声は感投詞、副詞か、なんだか知ってるか」
珍妙な問答がくり返されるうちに第八章へと転じていく。
苦沙弥先生の家のすぐ近くに落雲館という中学校があって、ここの生徒が勝手に周辺に入り込んで来て大声で話をする、弁当を食う、どみを散らす、歌を歌う、傍若無人のふるまいをするに及んで先生おおいに怒って叱りつければ、生徒たちはおそれいるどころか、逆に、
―――からかってやれ―――
野球のボールをわざと投げ込んだりする始末。先生は生徒を一人つかまえ、落雲館の教師を呼びつけ、苦情を述べる。結局、ボールが屋敷内へ入ったらきちんと断って取りに来るよう、あまり本質的とは言えない解決策で、大事件は落着したみたい。そこで猫は“これより大事件の後に起る余瀾[よらん](その他の出来事)を描きだして、全篇の結びを付けるつもりである。すべて吾輩の書くことは、口から出任せのいい加減と思う読者もあるかも知れないがけっしてそんな軽率な描ではない。余瀾ならどうせつまらんに決まっている、読まんでもよかろうなどと思うととんだ後悔をする。ぜひしまいまで精読しなくてはいかん。
と壮語しているので少し紹介すると、あの俗物金満家の金田と、それと親しい鈴木藤十郎が話しあい、どうやら落雲館の騒動は金田が苦沙弥を困らせようと仕かけたところもあるらしい。苦沙弥がどのくらい閉口しているか鈴木に探らせる企み・・・。確かに苦沙弥は難渋して胃の調子もわるいみたい。主治医の甘木先生が訪ねて来て催眠術をかけようとしたり、またあらたに山羊のような髯をはやした旧友が来て人生哲学を開陳する。すなわち、“鈴木の藤さんは金と衆とに従えと主人に教えたのである。甘木先生は催眠術で神経を沈めろと助言したのである。最後の珍客は消極的の修養で安心をえろと説法したのである。主人がいずれを選ぶかは主人の随意である。ただこのままでは通されないにきまっている”とあって第九章へ変わる。 申し遅れたが苦労先生はあばた面である。しばらくは人間の容貌についての復習が語られ、 一転、送亭の伯父が登場して、これがまたヘンテコな人物。さらに過日訪ねて来た山羊髯の珍事も語られ、最後は猫の読心術が披瀝される。第十章は苦沙弥家の家族の風景が入念で、またトンデモナイ恋文事件が起きたりするが、余瀾の極みのような気もするので先を急ごう。
ここでいきなり話題を・・・・・・いや、いや、話の風向きを変えて、
「漱石って、そんなにすごい作家なのだろうか」
いきなり漱石概論はおそれ多いから、とりあえず〈吾輩は猫である〉についてのみ私の思案を散らしておこう。
そもそも大上段ながら、よい小説とわるい小説とを計るものさしはなんなのか。いきなり突飛なことを語って恐縮だが、過日、囲碁界の実力者がコンピュータソフトと戦って敗れた。驚くことではない、と思う。囲碁について言えばコンピュータはきっと人間に勝つ。それは、囲碁は充分に複雑で、奥深いゲームではあるが、勝負の目的ははっきりしている。領土をたくさん取ったほうが勝つのである。結末がはっきりしていればコンピュータは複雑なプロセスをみごとに乗り越えて最善の結果にたどりつくだろう。疲れもしないし、まちがいも犯さない。人間はかなわない。 しかし小説は、なにがよいのか、そこがはっきりしない。いろいろなものさしがあり、読む人の思案や好みにも支配される。コンピュータはけっして名作を書けないだろう。
じゃあ、小説を計るにはどんなものさしがあるのか、とりあえずいくつかを考えてみた。
A ストーリーのよしあし。
B 含まれている思想の深さ。
C 含まれている知識の豊かさ。
D 文章のよしあし。詩情の有無も含めよう。
E 現実性の有無。絵空事でも小説としての現実性は大切だ。
F 読む人の好み。作者への敬愛、えこひいきもここに入るだろう。
こういうものさしを、五段階法でそれぞれ評価してみたらどうだろう。不肖、私が〈猫〉を俎上に載せ、六角形で図形化してみれば、
1(A)+4(B)+5(C)+3(D)+3(E)+3(F)=19
合計19点。少し説明を加えれば、小説はストーリーを命綱とするジャンルだから〈猫〉ではAの1点
やむをえない。Bについては明治の近代化に対する洞察など充分に深い。Cはこの作品の一大特徴であり、5点としよう。文章、現実性は平均点。読む人の好みとしては、私は健舌体を好むが(猫)は長過ぎて読みにくい。大きな弱点だ。漱石への敬意を加味しても3点である。 私が名作と仰ぐ安部公房の〈砂の女〉は(一番の好みを引きあいに出すのは不適当かもしれないが)30点に近いのだから、19点はけっして高くない。名作と評するには低過ぎる。
では(猫)は価値の劣る作品なのかと言えば、そうとばかりは言えない。小説として楽しむには、つらいところがある。現代ではとりわけそうだろう。学のありそうな人たちが、仲間だけで楽しめる話を交わし(漱石に他意はなくとも)◎[げん]学的に映るのはまちがいない。とりわけ現代の若い人には、
「なにがおもしろいの」
評判はわるいだろう。ユーモアもわざとらしく、くどい。
しかし、大切なのは楽しめる小説としては不足があるが、(見かけに反して)学ぶことの多い小説であることだ。夏目漱石が学者という立場から小説家へ、なにを考え、どんな試行錯誤に陥ったか、そのプロセスを作品の中に見ることにおいて、深いものを含んでいる。夏目漱石という大作家の多彩な可能性と周到な瀬踏みを含んでおり、これ以後の名作の萌芽がすべてこの作品の中に潜んでいる。
「こんなスタイルはどうかな」
苦悩する激石のプレゼンテーションであった。率直に言って〈描〉以前の短編は弱点が多過ぎる。プロの作品としては落第点に近い。〈描〉とほとんど同時に書かれた〈坊っちゃん)、これが小説らしい小説のスタートであった。〈描)で小説の多様性を模索して地下水脈を造り、〈坊っちゃん)でその一つを形で示した、ということだろうか。多くの花が、このあと〈描〉の上に形を採って咲いていく。
最後の第十一章にも触れておこう。残念ながら、ここで巧みに作品が収斂されることもなく、 あい変わらず冗長に続いていく。猫が碁を論じ、寒月がヴァイオリンを買ってそれを弾くのに苦労し……………ああ、そう言えば寒月は金田家とは関わりなく故郷で結婚し、さらに自殺論、文明論、 古来の賢人の、たとえばソクラテス、セネカ、プラウトゥスなどの諸説がちらほら語られ、描を主人公にしたホフマン(一七七六~一八二三)の小説が百年も前に書かれていることについても 「知ってるよ」とばかりに敷衍[ふえん]し、さすがに猫自身も厭になったのか、ビールを飲み、酩酊のまま水がめに落ちて溺れ死ぬ。かくて、 “次第に楽になってくる。苦しいのだかありがたいのだか見当がつかない。水の中にいるのだか、 座敷の上にいるのだか、判然しない。どこにどうしていてもさしつかえはない。ただ薬である。 いな、楽そのものすらも感じえない。日月を切り落し、天地を粉砕して不可思議の太平に入る。 吾輩は死ぬ。死んでこの太平をえる。太平は死ななければえられぬ。南無阿陀仏南。ありがたいありがたい”
と、これが大作の結語なのだろうか。
あえて言おう。《猫》は第一旅を読めばだいたいわかる。との(知っていますか)でお茶を得すのも一つの方便だろう。ただし漱石の文学を、いや、小説というものを知るには厄介だが役に立つ。そういう意味での名作だ。困った大作なのである。漱石自身もそれを気づいていただろう。 〈描〉の成功にとりあえず喜んでみても前途の多様性を考えて、
ー大丈夫かなー
この時期に悩まなければ、あれほどの凄い小説家にはなれなかった、と私は思う。